一人前になるには

「お前はまだ半人前だな」

 一時期、あの人は口癖のように言っていた。
 別に師弟の関係ではなかったし、その世界で生きていくと決めてもいなかった頃は、「半人前」とか言われてもピンと来なかった。
 あの人の仕事に全く関わっていなかったかと言えばそうではないので、彼なりに自衛の方法を教えようとしていたのだろう。

 ただ、誰かにものを教える才能が壊滅的だった、それだけのことだ。
 そのせいと言うか、肝心なことを端折って注意されて、ちょっと困ったことになった経験が何度かある。

 昔、チーチーという名前のハムスターを飼っていた。
 あの人の家に来て間もない頃、私が一人で退屈しないようにと買ったそうだ(その時の前後の記憶はあまり無い。名前も私がつけたとのこと)
 新聞紙を敷き詰めた水槽の中で、ちょろちょろ動き回る姿に夢中になっていたことは覚えている。
 チーチーは三年とちょっとの間生きて、そして死んだ。動かなくなっているのを見つけた時は悲しくて、しばらくは水槽の前から離れることが出来なかった。
 チーチーの体は、庭の隅の日当たりの良い所に埋めた。

 泣き喚いたりしない程度の分別はあるつもりだった。けれど、どこかで納得出来ない部分はあったのだと思う。チーチーがいた水槽を片付ける気になれず、しばらくの間そのままにしていた。
 早く片付けたほうがいいぞと言われたが、それからも水槽は出しっ放しだった。

 一週間ほど経ってからだったか。水槽の中から、かさかさと音が聞こえてきたのだ。
 そこには生前と変わらないチーチーがいた。あの人は「だから言っただろう」と呟いた。生きていた時の居場所――水槽が残されたままだったから、チーチーは戻ってきたのだと言う。人に飼われていた動物は、時々そういうことがあるそうだ。

「よっぽど居心地がよかったんだろうな」

 何事も無かったかのようにヒマワリの種をねだるチーチーを見て、あの人が苦笑しているのがわかった。
 今のところ問題は無いみたいから、放って置けばいい。時間はかかるだろうけれど、ここに未練が無くなれば、勝手に出て行くだろう、と。

「そのまま居着いて、化けハムスターになるかもしれないけどな」

 意地悪い一言を私の背中に投げて、彼は部屋を出て行った。
 その後も何度か似たようなことがあり、もしかしてあの人はわざとやっているのでは?と思ったりした。
 でもそれは私の邪推で、あの人は実践で学ばせる派なのだと理解して今に至る。

 化けハムスターにはなることも無く、チーチーは今も水槽の中にいる。たまに姿が見えなくなる時があり、どこに行っているのだろうと想像を巡らせている。
 もしかすると、チーチーは半人前の私を心配して、ここに留まってくれているのだろうか。空の水槽を見ていると、ふとそんな考えが浮かんでくる。

 あの人の足手まといにならないように、チーチーが安心してここを離れられるようにしたい、が。
 どうすれば一人前になれるのか、それはまだわからない。

2008/04/02