黄金の双牙、戦の狼

 アースガルドとミッドガルドを繋ぐ橋ビフレスト。その傍らに聳える峻険な山の頂に、一つの館がある。
 ヒミンビョルグ――「天の断崖」の名は、その館にこそ相応しいと言えよう。ヒミンビョルグには、オーディンによってこの国に迎えられたミーミルとヘイムダルが住んでいる。
 蜜酒を口にしていたミーミルは、ヘイムダルの背中に声をかけた。

「今日も出かけるのか、ヘイムダル?」

 頷くと、そのままヘイムダルは飛び出していった。開かれたままの扉を見ながら、ミーミルは静かに笑う。

「やれやれ」

 普段は扉を閉め忘れるようなことは無いのだが、遊びに出る時だけは忘れてしまうようだ。子どもの仕事は遊ぶこと――ミーミルはそう割り切って黙認している。

「よい友人を持ったようだな……」

 扉を閉めると、再びミーミルは蜜酒の入った杯を傾けた。

 イダの平原に、剣のぶつかりあう音が響く。

「隙ありっ!!」

 ロキは振り下ろされた剣を流して刺突を繰り出した。相手は素早く背後に飛び、間合いをとる。それを追うロキは、踏み込みつつ剣を横薙ぎに一閃。それを受け止めたのは金色の刃だった。
 一瞬の静止の後、二人は剣の切っ先を降ろす。ロキとヘイムダルはそれぞれの剣を投げ出して仰向けに寝転んだ。

「ぜ〜んぜん決着つかないね」

 ロキは悔しそうに、しかし楽しそうに呟く。

「……そうだな」

 ヘイムダルも頷いた。

 時期を同じくしてアース神族の仲間入りを果たしたためか、ロキとヘイムダルは兄弟のように仲が良い。先ほどの剣の稽古も、二人にとってはいつもの遊戯だ。
 不意に、笑いあっていた二人の上に影が落ちた。

「隙ありぃっ!」

 ロキは転がりつつ剣をとり、すぐさま飛び起きる。先ほどまで横になっていた所には、鋭い刃先が突き立っていた。
 突然現れた刺客は、今度はヘイムダルに狙いを定めて剣を振り下ろす。刃を受け流しつつヘイムダルは刺突を繰り出した。刺客は素早い動作で剣を戻し、防御の体勢をとる。
 その背中を狙いロキが斬りかかる。斜めに下ろされた一閃を伏せてかわすと、踵を背後のロキめがけて突き上げた。
 後ろに下がって回避したロキだが、何故かそれ以上の追撃をやめてしまう。ヘイムダルもまた同じだった。

「……さっきのは卑怯だぞ、テュール」

 立ち上がった刺客――テュールは悪びれるふうもなく笑う。

「敵の油断を突くのは常套手段、常識だろ」

 ひとしきり三人で笑った後、ヘイムダルとテュールの視線はロキの持っている剣に向けられた。

「前から聞きたかったんだが……その剣はオーディン様のものじゃないのか?」
「そだけど?」

 ヘイムダルの剣はハリンスキージ。金色の輝かしい刀身を持つ一振りだ。テュールが持つのはヒルドールヴ、幅広の無骨なつくりだが、その見た目に反して片手で振るうことができるほどに軽い。どちらともトールの魔の手を逃れた剣である。
 ロキもまた一振りの剣を持ってきているのだが、二人がどう見てもそれはオーディンが愛用している剣、グラムにしか見えない。と言うより、肯定したのだからグラムに違いないのだろう。

「いいのか? さっき親父がグラムを探してたぞ」
「いいのいいの。後でちゃんと返すから」

 どこまでもあっけらかんとしたロキの返事に、二人は思わず笑ってしまった。

「実戦とか、やってみてぇよなあ」

 草の上に寝転がって休息を取る中、テュールは溜息混じりに呟く。今までにやってきたことと言えば、ロキやヘイムダルと剣を交える程度。攻めてくる敵がいない故に当然なのだが、稽古ぐらいしかやることがない。
 トールに頼んで何度かトロール退治に参加させてもらったが、手応えがない。トロールは数が多いだけで戦闘能力は低いのだ。
 彼らの与える実害も、人間たちが養っている家畜を追い回し食べる程度。何十、何百頭もの群れをまるまるたいらげてしまうわけでもないから、人間側にとっても大きな害にはならなかった。
 トロールを相手にして困難なことといえば、殲滅くらいだろう。

「そんなこと言ってもさぁ、無茶したら死んじゃうじゃん。我慢しとこーよ」

 グラムを傍らに置いて、いつも手放さずに持っている短剣を眺めながらロキが言う。テュールはつまらなさそうに舌打ちした。

「ちぇ、ヘイムダルはどうなんだよ?」
「――ロキと同意見だ。俺たちはまだまだ未熟だと思う」

 話を振られたヘイムダルは、やや間を置いて答えた。

「何だよ、二人ともつまんねえ。あー、退屈で死にそうだぜ…」
「そんじゃ、今からウルのところにでも行く?」

 飛び起きながらのロキの提案にも、テュールは退屈そうに首を振る。

「ウルの奴について行っても、ユーダリルで獣を追いかけ回すだけだろ? あんなの俺の性分じゃねえ」

 ウルはこの場にはいないが、別に疎遠というわけではない。彼は三人とは違い、剣ではなく弓矢に、そして狩りに興味を持った。その熱中ぶりはシフをはじめテュール達もあきれ返るほどで、ついには自作の弓矢を作るための小屋をユーダリルに建てるほどだ。
 弓を使う相手との練習も悪くは無いが、マイペースなウルのことだ、付き合ってくれるとはテュールは思えなかった。

「じゃあ、テュールはどうしたいのさ。剣の稽古は、今日はもう飽きたんでしょ?」
「知らねーよ、ロキが考えてくれよ。おまえ頭いいんだから」

 肩を竦めるロキに、テュールはぶっきらぼうに応えた。

「……実戦、なのかどうかはわからないが」

 それまで二人を静観していたヘイムダルが口を開いた。ロキたちの視線は自然とヘイムダルへ向けられる。

「アースガルドに来る時、義父上は自分の角杯を泉に置いて来たそうだ」
「だから何なんだよ」

 テュールは問い返したが、ロキは無言のまま。どうやらヘイムダルの意図がわかったらしい。

「義父上は問題ないと言っていたが、あの様子じゃ置いて来たことを悔いていらっしゃるらしい。
 ……その角杯を、俺達で取りに行かないか?」
「いいねっ! それ」

 待っていたとでも言うように、ロキが賛同する。

「ヤルンヴィドに行くのか。面白そうだな!」

 テュールも声を弾ませる。
 そうと決まればすぐにでも出発、幸い(?)まだ日は高い。三人は早速アースガルドを飛び出した。

「アースガルドに来た頃を思いだすぜ……」

 神々の住まうアースガルドと、外界ウットガルドに挟まれる形で位置するミッドガルドは広い。人間達の飼う並の馬では、夜通し駆けても七夜で横切るのは無理だろう。
 言うまでもなく、徒歩だとさらに長い。アースガルドを飛び出してから何回野宿を過ごしたのか。
 だが、着実にヤルンヴィドの影は近くなってきている。見かけるトロールの数も日ごとに増えていた。

「やっと見えてきたね」

 ロキは前方を指差す。まだ遠くに見えるヤルンヴィドは森と言うよりも、大きな怪物が横たわっているような、不気味な影に見える。
 更に二夜ほどかけて、ようやく三人はヤルンヴィドに到着した。本来ならば一夜で充分な距離だったのだが、更に一夜をかけたのは、森に近づくのは日が昇っているうちが良いというロキの提案があったためだ。

「二人とも、準備はいいか?」

 ヒルドールヴを携え、テュールは二人に目配せする。
 すぐにでも森に飛び込んでいきそうなテュールを、ヘイムダルが手で制した。

「待ってくれ、一つ提案がある。競争にしないか? 誰が一番先に泉に着いて、義父上の角杯を取れるか」
「おお、それいいな! ロキはどうなんだよ」

 ヘイムダルの提案にテュールは一層目を輝かせた。

「ん。いいんじゃない?」

 ロキも賛同の意思を示した。が、その声と表情にはどこか意味ありげな笑みが浮かんでいる。
 互いの意思を確認し、三人の間に沈黙が訪れる。最初の一歩を踏み出したのはほぼ同時。各々の剣を手に、テュール、ヘイムダル、そしてロキはヤルンヴィドへと飛び込んでいった。

 ヘイムダルは、欠片も迷うことなく疾走を続けていた。森の闇にも、周囲に潜んでいるであろう魔狼にも恐れることなく、ひたすらまっすぐに。
 当然と言えよう。彼はミーミルに拾われてからアースガルドに迎えられるまでの間、このヤルンヴィドを庭としていたのだ。闇に覆われた森に適応するために研ぎ澄まされた五感は、闇の中でも視界を失うことなく、僅かな物音も聞き逃さない。
 アースガルドへ移住した後も、自分の力が必要になる時が来るかもしれないと考え、ヘイムダルは感覚が鈍らぬようにと鍛錬を重ねていた。たゆまぬ訓練の成果か、あるいは成長に伴うものか、彼の五感は森にいた頃よりも鋭くなっていた。
 自分がいる場所とミーミルの泉の位置関係を把握するのも、その能力を以てすれば容易なことだ。

 魔狼が一頭、横から飛びかかってきたが、ヘイムダルはこともなげに急襲をかわす。

「悪いな、お前達に付き合ってる暇は無いんだ!」

 森に突入する時の提案も、自分が一番先にたどり着けるという確信があったが故。

(二人とも、悪いがこの勝負はいただいたぞ!)

 自信と確信に満ちた表情で、ヘイムダルは走り続けた。

「――っと、危ねえ!」

 テュールは襲いかかってきた魔狼をヒルドールヴの背で叩き落とした。魔狼と呼ばれてはいても結局は狼、急所の鼻を叩かれては追撃を断念せざるを得ない。
 次第にテュールの足取りが遅くなる。魔狼に手こずっているのではない、鬱蒼とした木々が作る闇と足元に生える雑草が、彼の足を鈍らせているのだ。

「あーくそ、やっぱ賛成するんじゃなかった……」

 最初はとにかく突っ切っていけば大丈夫だと考えていたが、思うように進めない焦りが、脳裏に迷いを過ぎらせる。とうとうテュールの足は完全に止まってしまった。

(〜っ、駄目だダメだ! やっぱ考えるのは苦手だ!)

 生来より、行動が何よりも先に来るのがテュールである。物事(泉のある方向についてすらも)を深く思索することは彼の分野ではないのだ。とりあえずは迷いを振り捨てて足を踏み出そうとした時、どこかから悲鳴のような声が聞こえてきた。
 テュールが何事かと反応するよりも前に、正面から魔狼が飛び出してきた。

「うわわっ!」

 咄嗟に持っていたヒルドールヴで魔狼の頭を打ち据える。流石に頭部へのダメージは応えたのか、魔狼はしばしの気絶から立ち直ると尻尾を巻いて逃げていった。

「何だったんだ……?」

 頭をかくテュールは、足元に何かがいることに気付く。小さな狼――いや、犬がテュールの足にぴったりとくっついていた。
 もしヘイムダルがいたら、仔犬を見て驚いたに違いない。ヤルンヴィドには魔狼以外の獣はおらず、入り込んだ獣達は一瞬で魔狼の腹に収められてしまうのだから。
 しかし、森の事情を知らないテュールにとってはさほど気に留めることでもない。

「さっきの奴に追われてたのか? 運が良かったな」

(……って、こんなことしてる場合じゃねえだろ!)

 仔犬を引き剥がすと、テュールは辺りを見回した。話に拠ると泉の周辺は日光がさしているらしいが、それらしき場所はどの方向にも見当たらない。

「くそぅ、ミーミルの泉はどっちだってんだよ……」
「わおんっ!」

 焦りから漏れた呟きに、仔犬が反応した。
 ある方向を示すように数歩進み出ると、振り返りテュールをじっと見ている。まるで、「泉はこの先にあるよ」とでも言うように。

「そっちに進めば良いのか?」

 話しかけても返事があるはずは無いのだが、それに応じるように仔犬は尻尾を振った。

「そうか、ありがとよ! お前も達者でな!」

 仔犬が何故泉の場所を知っているのか、示された進路が間違っているかもしれないといった思考は、テュールの頭には無かった。

 前方に、不自然に明るい場所が見える。ミーミルの泉だ。ヘイムダルは走りつつ気配を探ったが、泉にはまだ誰もいないようだ。どうやら計算通り最初に到着できたらしい。自然と笑みがこぼれる。
 勝利を確信したヘイムダルが、泉を取り巻くささやかな草の絨毯を踏みしめようとした時――

「いっちばんのり〜〜!」

 忽然と、正面にロキが現れた。突然のことにヘイムダルも反応しきれず、思わず足を止めてしまった一瞬の間に、ロキはミーミルの泉に到着してしまった。

「お前……一体どこから」

 ロキは振り向くと、得意げな笑みを浮かべながらヘイムダルの顔を覗き込む。

「ヘイムダルがあんな提案するなんて珍しいからさあ。ピンと来たんだよね、きっと僕達を出し抜く作戦か何かがあるに違いないって」

 育ての親の影響か、ヘイムダルの性格は穏やかなほうだ。テュールとロキの掛け合いなどにも口を挟まず見ているだけであることが多く、自分から物を言い出すことは珍しい。
 そんなヘイムダルが泉に行こうと言い出した上に競争まで持ちかけてきた。ロキは、彼の提案に裏があるだろうと考えたのだ。

「だからって反対するのも面白くないからね、テュールは気付いてなかったし。こっちも策を練らせてもらったワケ」

 ヤルンヴィドに突入した時、ヘイムダルとテュールは森だけを見ていたが、ロキはヘイムダルの姿を追い、気付かれぬようにノミに変化して服に取り付いた。そうすれば、後はヘイムダルが勝手に泉まで案内してくれる。
 そしてその読み通り、ロキは労せずして泉への一番乗りを果たすことが出来た。
 作戦は完璧だと思っていた。ただ一つだけ、ロキの聡明さをヘイムダルは見落としていたのだ。

「っと、角杯を取るまでが競争だったよね?」

 足取りも軽くロキは泉へと向かう。しかし、辺りを見回しても角杯はどこにも見当たらない。

「角杯、無いみたいなんだけど……誰かが持っていったのか?」
「まさか。この泉には誰も来ないはずだ。魔狼は近づけないし、持ち去る理由も無い」

 首をかしげるロキの言葉を、ヘイムダルは否定する。
 その霊力が知れ渡って間もなくの頃は、水を飲ませてもらおうと泉を訪れる巨人は絶えなかった。
 しかし、ほとんどはその知恵を手にするに見合う器を持つ者ではなかった。いつからかミーミルが守る泉は気狂いになる泉だ、と言われるようになり、やがてミーミルの元を訪れる者はいなくなった。ヘイムダルはそのように聞いている。
 事実ヘイムダルがいた頃も、ミーミルから聞いた来訪者の話は一人の巨人族と、とある神についてだけだった(ヘイムダルは森で遊びまわっていたため、オーディンとの面識は無かった)。

 角杯のありかに最初に気付いたのは、ヘイムダルだった。

「ロキ、見ろ」

 そう言い指し示したのは、ミーミルの泉。泉の底に角杯が沈んでいた。
 角杯は泉の水を飲むためにこしらえたもの。ミーミルは泉を去る時に必要無いと思い、自分が離れた後も水を口にすることが出来ぬようにと、普通では手の届かない所に置いたのだろう。
 泉は意外と深く、二人の身長だと全身が水に浸かるのは確実だった。

「まずいな……どうやって取ろう」
「どうやって、って。潜って取ればいいじゃん」

 泉に飛び込もうとしたロキを、ヘイムダルは慌てて引き止める。

「泉に宿る霊力のことは知っているだろう? 角杯が無ければ飲めないのは、手ですくうと霊力が消えてしまうかららしい。
 ただ、ここの水に直接口をつけるとどうなるのか、義父上にもわからないんだ。もしかすると泉が溜め込んだ霊力が、触れた者に一気に流れ込んでくるかもしれないとも言っていた」

 角杯に注いだ分だけでも正気を失わせるほどの力を秘めた水だ。泉に宿った霊力全てを受ければどうなるのか。おそらく、オーディンやミーミルでもただでは済まないだろう。
 ヘイムダルの言に対してロキが漏らしたのは、不満だった。

「じゃあ、角杯をこのままにして帰るっていうの? 何のためにここまで来たのかわからないよ」

 せっかく一番乗り出来たのに、と小声で付け足す。

「とにかく、テュールが来るまで待とう。三人でどうするか相談して――」
「それはまずいよ……あいつのことだから僕達が止めても飛び込むに決まってる」

 ロキの気まずそうな声色にヘイムダルの表情が強張る。確かにテュールならば、ヘイムダルの制止など無視して突っ走ってしまうだろう。

「待つだけ無駄だ、僕が入って取ってくるよ」

 ロキは片手を泉に突っ込み、ヘイムダルに笑いかける。

「手ですくったら霊力は無くなっちゃうんでしょ? こうすれば……」

 その続きはヘイムダルの耳には届かなかった。言い終わらないうちに、ロキは泉に飛び込んでいた。
 やがて、泉からロキが頭を出した。見せ付けるように掲げた右手は角杯をしっかりと握っている。

「ほら、何とも無かったよ」

 ヘイムダルの手を借りて泉からあがる。全身ずぶ濡れではあるが、確かにロキは正気を失っているようには見えない。
 思わず気が抜け、ヘイムダルはそのままへたり込んでしまった。

「はは……心配させるなよ、まったく」

 ロキの髪がいくらか乾いてきた頃に、テュールは泉に到着した。

「テュール、遅かったねっ」
「俺が最後かよ、やっぱりやめとくんだった……」

 落胆するテュールを見て、二人はお疲れ様、と声をかける。

「とにかく、勝負は僕の勝ちだね」

 誇らしげに角杯を握るロキ。それに反駁したのはヘイムダルだった。

「いいや、引き分けだ。泉に最初に着いたのはお前だが、角杯を見つけたのは俺だからな」

 屁理屈同然の意見にロキは目を丸くする。反論の内容よりも、ヘイムダルが口を出したことのほうに驚いているのだ。

「何だよそれ。泉に着いて、先に角杯を取ったのが勝ちって言っただろ。どっちも僕が一番だったじゃないか」
「俺はお前よりも先に角杯に気付いてた。お前に教えていなければ、俺が先に角杯を取っていた」
「角杯を取る方法だって僕が考えたよ!」
「あれくらい少し考えれば出来るさ。それに、ロキが狡い手を使わなければ、泉に最初に着いていたのも俺だったんだからな」
「狡くない、賢いって言いなさい!」

 テュールはしばらく言い合う二人を疲弊した目で見ていたが、やがてその肩が震えだす。自分だけが負けという扱いに憤懣やる方ないといった様子だ。

「お前ら細かいことでうるせーんだよっ!! 角杯取ったんだからさっさと帰ろうぜ!」
「あ、ちょっと……テュールは休まなくていいの?」
「森を出てから休めばいい!」

 二人は立ち上がり、身を翻して歩き出したテュールを慌てて追いかけていった。

「三人とも、一体どこに行っていたのだ!?」

 アースガルドに帰り着いた三人を迎えたのは、オーディンとミーミルだった。二人とも心配で仕方なかったのだろう(ミーミルはヘイムダルを優しく抱きしめ、怪我は無いかと尋ねるほどだった)

「それよりロキ、グラムを返してくれんか。またお前が勝手に持ち出したのであろう?」

 テュールの頭をくしゃくしゃと撫でながら、オーディンはロキを見る。
 ロキははいはいと腰に手を伸ばしたが、その手が凍りついた。

「どうした?」
「えっと……その……」

 ロキは泉に沈められた角杯を取る際、邪魔になるグラムを泉のそばに置いた。その後、泉に着くなり帰ると言い出したテュールを追いかけていったのだが――

「泉に、忘れてきました……」

 瞬間、空気が変わったのを、その場にいる全員がはっきりと知覚した。オーディンの肩に留まっていたフギン達が、まるで熱いものに触れたかのように飛び上がる。
 周囲から冷静沈着な人物であると評されるオーディンには、「激怒するもの」の名は似つかわしくないと思われている。しかしそれは誤解で、彼がいざ怒りを表した時は名前の示す通りの激情を発するのだ。
 その怒気だけで、周囲の空気が震えているような気がするのは錯覚だろうか。

「この馬鹿者が! 三夜猶予をやる、さっさと取って来い!!」
「りょ、了解しましたあ――っ!」

 視線だけで射殺される。直感的に察したロキは、三夜では無理だと頭が考えるよりも先に、口のほうが動いていた。
 その後、きっかり三夜で戻ってきたロキがボロボロだったのは言うまでもない……。