帰還した先王

 ヨトゥンヘイムの上空を飛行しつつ、オーディンはロキから身の上を聞いていた。
 オーディンと別れた後、傷を負って動けないでいたラウフェイを救い、介抱したのがロキの父親だったという。名はファールバウティ、巨人たちの中でも飛びぬけた賢さを持ち、世間ずれのした男でもあったそうだ。彼もまた数年前に旅に出たまま消息を断ったらしい。
 オーディンはその名に聞き覚えがあるような気がしてならなかったが、どこで聞いたのかまでは思い出すことができなかった。

「ふう、ガルドルって結構疲れるんだよね」
「ではしばらく休むとしよう、そろそろミーミルの泉に着く頃合だしな」

 日が昇りきった頃になって、二人は泉に辿り着いた。オーディンは羽衣を脱ぎ、ロキは呪歌を唱えて元の姿に戻る。降り立った二人を迎えたのはミーミルとヘイムダルだった。ヘイムダルはやはり、ミーミルの後ろからじっと視線を向けている。

「無事に戻ってきたか。では、約束を果たしてもらおう」

 言ったミーミルに、オーディンは深く首肯する。ヘイムダルと同年に見える少年――ロキの姿を認めると、ミーミルはヘイムダルの背中を押す。ヘイムダルは戸惑ったようにミーミルを見上げたが、彼は微笑んだまま何も言わなかった。次いでロキに目を向けると、ヘイムダルの肩を軽く叩いてやる。

「友人を持つのはいいことだ。仲良くしてやってくれ」

 ロキもしばらく黙ってヘイムダルを見ていたが、やがて嬉しそうに破顔するとヘイムダルの手を握って何やら喋りはじめた。

「約束を違えるつもりはない、しばらく休憩をさせてくれ。さすがに疲れたのでな……」

 ロキが言い出したので休むことにしたオーディンだが、これは本音だった。なにしろヨトゥンヘイムにいる間は片時たりとも気を抜くことができなかったのだ。心身ともにすっかり疲弊してしまっていた。返事も待たぬまま、その場に座り込む。
 ミーミルも泉の傍らに座り、幼い二人を見遣る。年頃の近い者と接するのは初めてのせいか、よく話すロキに対してヘイムダルはあまり口を開かない。だが、おもはゆそうな表情をしているので、不快というわけではなさそうだ。
 ふとミーミルはロキを示し、オーディンに問いかける。

「あの少年は?」
「お前と同じように、アースガルドへ連れて行ってほしいそうだ。ラウフェイの息子と言っていた」

 ミーミルは不意を突かれたように目を丸くする。何か思い当たるものがあったらしい、どこか納得したような様子で頷いた。

「もしや……父親の名はファールバウティではないか?」

 一瞬疲労も忘れてオーディンはミーミルに詰め寄った。見落してしまっていた手掛かりが、今頃になって見つかるとは。声の調子も、半ば叱責に近いものになっている。

「知っておるのか!? ファールバウティを――」
「知っているも何も、あやつとは古くからの友人だ。ある時ここによく訪れてくるようになったのでな。理由を訊くと『女を匿っている』と返してきた。神を匿っていることは、他の者には隠しておきたかったのだろう。あやつにしては珍しく、よほど惚れ込んでいたようだった……。聡明な者を好む男だったから、もっと早く気づくべきだったな」

 そのまま二人は沈黙する。オーディンは、偶然でもファールバウティに会えていればと思っていたし、ミーミルはオーディンの求める手掛かりを見落してしまった自分を恥じているのかもしれなかった。
 だが少なくとも、それは幼い二人にとってはどうでもいいことだ。ヘイムダルの手を引き、ロキが傍らに駆け寄ってきた。

「そろそろ出発しようよ。早くアースガルドって所に行きたいって、ヘイムダルも言ってるんだから」

 名前を出されたヘイムダルは覚えがないのか、驚いたような表情を見せる。が、内心はロキの言葉通りだったのだろう。ミーミルが軽く首を傾げると、何度も頷いた。

「そうだな、そろそろ出発するか」

 オーディンは鷲の羽衣を再び纏うと、三人にはヤルンヴィドを通って行くように命じた。呪歌を使うことで体力をどれだけ消耗するのか、オーディンはまだわからない。他の二人よりもアースガルドに行きたがっているロキのことだ、はやるあまりに疲労を忘れているか、隠しているのかもしれないのだ。道程の途中で墜落してもらっては困る。ヤルンヴィドは広く深いが、ミーミルがいれば道に迷うことも無いだろう。

 オーディンの眼下で、大小三つの影は森の中へ消えていった。

「おかえりなさい、待ってたわよ」

 微笑んで出迎えたのはリンドだった。一足先にヤルンヴィドの外に着いたオーディンは、ミーミル達が来る前に用を済ませておこうと思ったのだ。
 手綱を引いて、リンドは馬を連れてくる。毛並は預けた時と全く変わらない。欠かさずに手入れをしてくれていたようだ。

「感謝する。また訪れることがあるかもしれんが――」
「もちろん歓迎するわ」

 嬉しそうにリンドは微笑する。オーディンも笑みで応じると、踵を返してヤルンヴィドへ戻っていく。その背中を、リンドは長い間見つめ続けていた。

 合流した四人は改めてアースガルドへ向かった。期待が相当大きいのか、ロキの足取りは軽い。時折背伸びをしたり、まだ着かないのかとオーディンの服を引っ張ったり。

「そう慌てるな。アースガルドは逃げはせん」
「でも、早く行きたいっ」

 急かすようなロキの返答に、オーディンは失笑する。二人のやりとりを楽しげに傍観していたミーミルも、そこに至り口を挟んだ。

「オーディンの言う通りだ。気が逸るのもわからないではないが、あまりに性急過ぎると損をするぞ?」

 ミーミルとオーディンの二人から言われてはロキも反論できない。ふてくされたようにだんまりを決め込むとオーディンの横に並ぶ。その様子を見て、オーディンはまたも失笑する。それにつられたようにミーミルも笑ってしまった。彼に手を握られたヘイムダルも、控えめながら可笑しそうな表情をしている。照れ隠しか、ロキは再び騒ぎ出した。

 後に、アースガルドで知らされる事実とはまったく無縁のような明るさだった。

 美麗なる橋ビフレストを渡り、オーディンはアースガルドへ戻ってきた。初めにオーディンの姿に気づいたのはフギン。

「オーディン! 今までいったい何処に行っていたのですか? ……とにかく、皆に知らせてきます」

 そう言ってフギンは飛んでいった。

(思い返してみれば、ヤルンヴィドへ行くことを誰にも知らせておらんかったな……)

 皆に心配をかけてしまった、フリッグは悲しんでいないだろうか。そんな考えにふけるオーディンを他所に、首を傾げているのはロキ。

「何か、変じゃない?」

 独り言のような呟きにオーディンは何が、と問い返す。どうにも納得いかない様子でロキはオーディンを見た。

「オーディンは、ここの王様でしょ? 王が戻ってきたのにあんまり嬉しそうじゃなかったよ」
「それは――フギンはあまり感情を表に出さぬからではないか?」

 オーディンが応えても、ロキはおかしい、と呟き続けている。とりあえず話を切り、顔をあげたところでオーディンはこちらに駆け寄って来る影を見つけた。

「兄貴!」

 息を切らしてオーディンの前で止まったのはヴィリ。よかった、と破顔してからミーミルらに目を向ける。

「兄貴、この連中は?」
「この者はミーミル。ヤルンヴィドへ行った時に世話になった者だ。ミーミルの連れのヘイムダル、それからこやつはロキ。ラウフェイの息子だ――ラウフェイはもう、死んでおった」

 そうか、とヴィリは俯き加減に呟いた。オーディンが妙に感じたのは、ヴィリを沈鬱とさせているのがラウフェイの死だけではないためだった。ヴィリはまっすぐに兄の顔を見据える。

「兄貴……謝らなくちゃいけないことがある」

 オーディンは言葉の続きを促したが、ヴィリは背を向けた。

「ここで話すのもなんだから、ヴァラスキャルフに行こうぜ」

 ヴァラスキャルフの扉の前では、ヴェーが二人を待っていた。

「に、兄さん……戻ってきたんだね。よかった……」

 ヴィリとヴェー、弟二人と共にヴァラスキャルフの広間へ入ったオーディンは、改めてヴィリに問いかけた。

「それで、わたしに謝らなくてはならないこととは――」
「すまねぇっ!!」

 言い終わらないうちにヴィリは頭を下げていた。

「全部俺のせいだ! 悪いのは俺一人だけだ! だから、ヴェーは許してやってくれ!!」

 ひたすらに言葉を吐き続けるヴィリにを見て、オーディンは当惑するしかなかった。
 何が悪いのか? 何を許せばいいのか――

「……すげぇ言いにくいことなんだけどよ」

 振り返ると、広間の入口にフギンとムニンがいた。先ほどの声はムニンのものだ。

「今のアースガルドの王は、ヴィリとヴェーなんだ」

 オーディンは愕然とした。当然だ、知らぬ間に王座を弟に奪われていたのだから。だが、その経緯がまったくわからなかった。いったい、何故二人が王座についているのか、それはヴィリ自身から語られた。

 オーディンがヤルンヴィドへ向かっていた頃、アースガルドは混乱を極めていた。王が突然姿を消したのだ。何処へ行ったのかさえもわからない。
 初めこそ、ヴィリの説得で何とか混乱は治まった。ラウフェイを捜しに、またヤルンヴィドのミーミルという巨人に会いに行ったのだろうと言う者もいた。しばらくすれば帰ってくるだろうと、誰もがそう思い王の帰還を待った。
 だが、いくら待てどもオーディンは帰ってこなかった。口にする者はいなかったものの、不安は確実に大きくなっていく。

 そして遂に、誰かがこう言い出したのだ。オーディンは死んだのだ、王はいなくなってしまった、と。
 王の不在という不安に駆られ、神々はオーディンの弟であるヴィリに王座に就くように勧めた。だが、ヴィリは頑としてそれを拒んだ。兄貴はまだ生きている、死ぬわけがない! 王の死が報じられた中でヴィリはオーディンの生存を信じ続けていたのだ。
 だが、それで問題が解決するわけではなかった。オーディンが消息不明となり指導者を欠いた状態では国は立ち行かない。ヴィリは王座を拒んだ。そうすると必然的に、神々の矛先はヴェーに向けられることになる。強く頼まれて、内向的な性格のヴェーが断れるわけがない。ほとんど押し立てられるようにしてヴェーは王座に就いたのだった。

 慌てたのはヴィリである。まだオーディンがいるはずの王座にヴェーが座ったのだ、これでは王位を奪ったヴェーは罪を犯したことになる。
 ヴィリは神々を説得して取り消すよう求めたが、成果はあがらなかった。オーディンは死んだ、王座が空位のままでは国の危機だ、それがヴィリを除いた全員の胸中だった。
 ならば、とヴィリはヴェーの補佐をすると申し出た。補佐と言ってもそれは表向きのもので、実質的にヴィリとヴェーが二人で王位に就いたのだ。
 ヴェーが王座を奪ってしまったのは自分にも責任がある、そしてヴェーはもう罪から逃れられない。それなら大罪という重荷をヴェーだけに背負わせるわけにはいかない――痛々しいまでの決意だった。

「俺のせいだ、ヴェーが兄貴から王位を奪っちまったのは。ヴェーは悪くない! こいつだけは許してやってくれ!」
「ち、違うよ。ちゃんと僕が断ってればよかったんだ。ヴィリ兄さんは何も悪くない……」

 二人の口から出るのは許しを請う言葉ではなく、互いの弁護。そして、何も知らせぬまま飛び出していった兄をまったく責めようともしない――それがオーディンの胸を余計に締めつけた。

「オーディンが死んじまったと思い込んでヴェーを無理矢理王にしちまったんだからな、オレを含めた他の連中にも非がないわけじゃねえ。だから、オレが言うのもなんなんだが……二人を無罪にはできねぇか?」
「ムニン」

 フギンは傍らのムニンを睨みつける。そしてオーディンに向き直ると、淡々と喋り始めた。

「どのような形であれ、二人は王位の簒奪という重罪を犯したのです。……わかっているのでしょう」

 オーディンは沈黙したままだったが、やがて決心した――しかしどこか思いつめているようにも見えた――らしく、二羽の従者に命じる。

「フギン、ムニン。皆に集まるよう言ってきてくれ」

 大勢の神々を前に、オーディンは泰然と佇んでいた。微かな囁きも聞こえない。全員が黙したまま、オーディンの言葉を待っていた。

「もうわかっていると思うが、皆に招集をかけたのは王座の件についてだ」

 傍らに控えていたフギンが、言葉を引き継ぐ。

「ヴェーが王座についたことは事実。ですが、オーディンがいる以上正式なものとは言えません。故に、アースガルドの現王はオーディンであるとします。……異議はありませんね?」

 呼びかけには、沈黙が返ってきた。再びオーディンが口を開く。

「ヴェー、そして実質対等の立場となっていたヴィリは王位簒奪の罪を犯したことになる。周知のとおり王位簒奪は重罪だ。よって二人には――」

 オーディンは一瞬だけ、二人の弟に目を向けた。ヴィリもヴェーも俯いたまま、宣告を待っているようだった。誰にも見られぬように、オーディンは拳を握り締める。

「ヴィリとヴェーはアースガルドより永久追放、流刑に処する」
「待ってくれ!」

 オーディンの宣言に大声で異議を唱えたのはトール。

「ヴェーのやったことは、俺たちに言われてしかたなく、だったんだ! 罰するのは二人だけじゃない、二人をそそのかしちまった俺たちもだ! ヴィリもヴェーも流刑になるほど罪は重くねぇ。そうだろ!?」

 別の場所からも意見の声があがる。声の主はミーミルだった。

「オーディン、彼の意見ももっともだ。いくら王位簒奪とはいえ、それまでの過程を考えれば、二人には情状酌量の余地もあるだろう?」

 二人の意見に賛成する声が、端々から聞こえはじめた。罰は減軽すべきだ、あるいは無罪だと。
 それが静まると、オーディンは態度を崩すことなく言い放った。

「規律は守らなければならぬものだ。ここで情に流されて減刑するという『前例』を作ってしまえば、それは後々このアースガルドの規律を乱し、世界を脅かす火種になる。
 一時的ではあるがアースガルドの安寧を乱した罪は重い。周囲の者に押し上げられたとは言え、ヴェー、そしてヴィリが重罪を犯したことは事実。ヴェーもそれを拒否することができたはずだ。よって二人は永久追放、他の者は無罪としたまでだ。減刑もできぬ」

 それだけ言うとオーディンは背を向けて広間を去った。
 既に、ヴィリとヴェーには一つの末路しか与えられていなかった。

 執行の日、アースガルドの門にはささやかな人だかりができていた。隠れているようなそれは、全員がヴィリとヴェーの追放を惜しむ者達だ。特にトールなどは、二人の肩を抱いて号泣している。

「これで、永遠にオサラバか……意外と短い付き合いだったなぁ!」

 ヴィリはどこまでも明るく振舞っている。だが、その笑い声は掠れていた。心の中ではトールのように盛大な涙を流しているに違いない。
 二人の罪人の前に進み出たのはフギン。ヴィリに布を差し出すとそっと耳打ちした。

「『兄』からの選別です。早く外套の中に隠してください……『王』には内緒なので」

 布にくるまれていたのは鞘に収められた剣。グラムではないが、名剣であると主張するような鋭い光だ。

「……申し訳ありません、私が余計な口出しをしなければ、こんなことには」
「いいってことよ。それよりも兄貴達のこと、よろしく頼むぜ?」

 オーディンの意見を後押しする格好だったフギンも、王に仕え、ともに国を守る立場であるが故。彼もまた見えない所で苦悩していたであろうことをヴィリは理解していた。
 顔を上げると、王の顔をしたオーディンと視線がぶつかった。オーディンは微動だにしない。

「ありがとうな、兄貴」

 ヴィリはヴェーの肩を叩くと、踵を返して歩き出す。別れを惜しむ言葉が二人の背中にかけられる。ヴェーは表情も身体も強張らせたままだったが、ヴィリは右手で軽く応じた。
 それも聞こえなくなった頃、ヴェーは糸が切れたように泣き出した。

「……ごめんなさい、兄さん……ぼ、僕のせいで――」

 ヴィリは嗚咽する弟の肩を強く抱き寄せる。その顔には強い決意が浮かんでいた。ヴェーと共に罪を背負うと誓った時と同じように。

「謝るこたぁねえさ。……なあヴェー、俺らは二人っきりじゃねぇ。兄貴もついてくれてるんだぜ」

 そう言ってヴィリはフギンに渡された剣をかざした。陽光を反射して剣は眩しく輝く。オーディン――兄という存在に、自分はこんな光を見てはいなかったか。慕い、羨望し、ずっと一緒にいられることへの「喜び」という光を。

「これからも、一緒に生きていこうな……」

 生まれてから初めての、そして永遠の離別だった。

 アースガルドには、それまでと変わらない平穏が戻った。ロキとミーミル、ヘイムダルが神族に加わり、ヴィリとヴェーがいなくなった。変化はそれだけだ。
 時折二人の消息を幾人かが案じる時もあった。しかし、少なくともオーディンはその中には入っていなかった。ラウフェイを探す必要も無くなり、アースガルドの王としての職務に専念しているのだと、周囲の目にはそう映っていた。

 フギンやフレキを傍につけず、オーディンは自室にこもっていた。蜜酒を飲む彼の前には、空の杯が二つ置かれている。オーディンはそれに目をやる度に重い溜息を吐いた。

(――昔はよく、三人で酌み交わしていたものだが……)

「オーディン、何してるの?」

 突然声をかけられ、オーディンは持っていた杯を取り落としてしまった。いつの間にか背後にロキが立っている。空の杯を隠し、オーディンは可能な限り平静を装った。見ると、窓の一つが開いている。

「普通に入ってこれんのか、お前は……。それで、用件は何だ?」

 ロキは不思議そうに首を傾げて、オーディンを見上げる。

「だって、最近様子がヘンなんだもん。弟を二人とも一度に無くしちゃったから無理ないとは思うけど」

 窓から入ってくる理由にはならないのだが、別の理由でオーディンは驚愕していた。

 ヴィリとヴェーを失ったことが応えているのは事実だ。だが、それを悟られぬよういつ何時も気を配っていたはずだ。
 今もフギン達を傍に置いていないのは彼らを通して知られるのを避けるため――現に、神々は気づいていない。そのはずなのに、ロキはそれを易々と見抜いたのだ。表には決して見えない、オーディンの心中に隠された深い傷を。

「ちょっと心配になってさ、来てあげたんだ。結構落ち込んでるみたいだし、僕が代わりに弟になってあげよか? 二人分はさすがに無理だけど……」
「ロキッ!!」

 オーディンの一喝に、ロキは両手で慌てて頭を庇う。軽率な発言にオーディンが激怒したと思ったのだ。
 だが、そうではなかった。

「それは…まことか……?」

 怒りとは異なる感情に震える声に、ロキはおそるおそる顔を上げる。見ると、オーディンの頬を雫が一筋伝い落ちている。

(――ありゃ……)

 オーディンは感動の涙を流していた。ロキは冗談のつもりだったのだが、オーディンはそうと受け取らなかったようだ。ロキが呆けているのにも気づかず、涙を拭う。

「義兄弟の誓いを……立ててくれるか?」
「う――うん」

 ヴァラスキャルフから出ると、オーディンは拳より一回り大きめの穴を掘った。短剣を取り出し、ロキは自分の腕に軽く突き立てる。オーディンも「グラム」で腕に切り傷を作った。二人の腕から血が滴り、赤い雫は穴へと落ちていく。

「これからは、酒を飲む時はお前も一緒だ。決してわたし一人で飲んだりはせん……いかなる時でもな」
「それじゃ、今から飲む?」

 ロキはあどけなく笑う。オーディンも笑った。久しく心から笑えた――そう思いながら。
 オーディンはヴィリとヴェー、二人の弟を失った。だがロキという義兄弟を得た。それはオーディンにとって大きな支えになるだろう。

 ――世界が、破滅へと傾くまで。