遺産

 後ろ手に扉を閉め、フローズヴィトニルが追って来ないことを確認すると、オーディンは息をついた。何故入って来ないのかはわからないが、とりあえずは体力の消耗を避けられる――初めからこの館に追い込もうとフローズヴィトニルが企てていたことを、オーディンは知る由もなかった。
 広間は照明が灯っておらず薄暗い。誰も住んでいないのだろうか? それにしては、ほこりや蜘蛛の巣は見られない。ゆっくりと、周囲の様子を窺いながらオーディンは歩を進める。

 横手へと通じる廊下に背をあて、そっと奥を覗いた。仄かに明かりが見える。明かりに向かい――こちらに背を向けて腰かけているのは、巨人族だろうか。
 膝掛けの上には本が置かれている。どうやらそれを読んでいるようだ。巨人が本をめくるよりも緩慢な動きで、オーディンは背後に忍び寄った。暖炉の明かりのために、巨人はオーディンの影を認めることはできない。それよりも本のほうに集中しているようだ。

「客人かね」

 グラムを首筋にぴたりとあてられてようやく、巨人はオーディンの存在に気づいた。白髪が生え、声はしわがれている。昔会ったフレーバルズと似たような、それでいて何かが大きく違っている印象を受けた。
 年老いた巨人は小さく鼻で笑うと、本を閉じて近くの棚に収めた。命を握られているにも拘らず、余裕綽々と表現するに相応しい態度――オーディンは、眉をひそめる。

「何も答えんのか。礼儀を知らん上に、物騒な客だ」
「ここは、ヨトゥンヘイムか?」

 答える代わりに、オーディンは問いかけた。

「正確に言えばヨトゥンヘイムの外れだ。ヤルンヴィドとの境界、とも言うな」

 以外にもあっさりと、巨人は答える。あまりに余裕のある態度に、警戒が一層強まった。
 その耳に入ってきたのは、低い笑い声――老巨人の哄笑だ。

「そんなことを訊くためにわしを脅したのか? まったくもって浅慮な奴よ」

 一瞬、老巨人の目が凶暴な光を発した。オーディンは咄嗟にグラムで首を掻き切ろうとしたが、その刃は呆気なく空振りに終わる。それに驚愕する暇もなく、オーディンの右手からグラムが弾き飛ばされた。

「読書の邪魔をした挙句、ちゃちな脅しをかけたことを後悔させてやろう」

 しばしの間、オーディンと老巨人は対峙する形で立っていた。
 無防備な老巨人に、それでもオーディンが攻撃できないのは、彼の傍らに佇む巨躯の魔狼を認めたからだ。弾かれ、壁に突き刺さっているグラムを握っていたほうの手首には、血が滲んでいる。
 「枝」のルーンの刻み方が甘く、効果が完全に発揮されなかったのだと推測したが、それでも剣の刃を、魔狼の牙も通さないだけの防御力はあるはずだった。しかしあの魔狼はそれを貫き、傷を負わせたのだ。下手すれば手首ごと持っていかれたに違いない。
 慄然としながらもオーディンは動けないでいた。ルーンを刻み直すことは、隙を見せるということだ。グラムを取りに行くのも同じ。老巨人はともかく、この状況で魔狼と闘っても勝ち目はない。
 老巨人は悠々とした動作で椅子に座りながら、オーディンに目を向けた。そこに宿る冷たさは、フレーバルズとは全く異質のもの――フレーバルズは訪ねてきた旅人を片端から拒絶する冷たさだったが、老巨人のそれは訪問客を顔色ひとつ変えずに殺すような冷酷さ――だった。

「ところで客人。名前は何と言うのだね」
「……ガグンラーズだ」

 老巨人は鼻を小さく鳴らした。「勝利を決める者」と名乗っただけに、当然の反応ではある。自分の前に佇む片目の男を、オーディンと見抜いた上での反応ならば、無駄な足掻きだとでも思ったのかもしれない。

「わしの名はヴァフスルードニルだ。この屋敷はわしのものだが、血で汚れるのは気に入らん。そこでガグンラーズとやら、わしと知恵比べをせぬか?」

 ヴァフスルードニルは自信に満ちた口調で提案する。老巨人の名を聞き、オーディンは心中で舌打ちした。よりにもよって、避けるようにと忠告された巨人の家に逃げ込んでしまうとは。
 しかし、そんな状況におかれてもなお、オーディンは冷静さを失わず思考を巡らせていた。

「知恵比べ……」
「そう。お前とわしのどちらがより多くの知識を持っているのか、それを勝負するのだ。互いの首を賭けてな。不服か?」

 オーディンは頷く。この状況では逃げようがない。拒否は許されていないのだ。
 傍らに佇む魔狼の頭を撫で、ヴァフスルードニルは満足したように頷く。

「誰から何を聞いたかは知らんが、勝負は正々堂々とするつもりだ。妙な真似をすれば、マナガルムの牙が今度は首に立つと思え」

 オーディンは警戒した姿勢を崩さぬまま首肯する。じっとこちらを睨んでいるマナガルムを横目で確認しながら、ただし、と付け加えた。

「わたしが勝ったら、質問に答えてもらいたい。そなたに一つ伺いたいことがあるのだ」
「……ふうむ、よかろう」

 自信たっぷりにヴァフスルードニルは応じる。佇んだままのオーディンを見て首を小さく傾げ、壁際に置かれた椅子を指で示した。

「どうしたのかな? 黙ったままで。いつまでも立ったままでおらずに腰かけてはどうだ」
「心の冷たき者と語ることは害にしかならぬ。裕福な家の者の前では沈黙が最良であるように。わたしはそう思う」

 マナガルムは低く獰猛な唸りを発し、前肢を一歩前に踏み出した。その魔狼よりも腹を立てているであろうヴァフスルードニル自身が、マナガルムを押し留める。

「なるほど。不要なことは語らぬ、か」

 そう言ってヴァフスルードニルは笑って見せたが、その双眸はまったく笑っていない。冷酷な光が一層強く輝いているように見える。

「では、わしから先に問うとしよう。この地上に昼をもたらす馬の名は、何という?」
「昼を運ぶ馬の名はスキンファクシ、『輝くたてがみ』という。人々の間でも名馬と名高い。知っていたか?」

 オーディンは間髪入れずに答を返す。

「それでは夜を運んでくる馬は何という名だ? 答えられぬわけはあるまい」
「勿論だとも。名はフリムファクシ、『霜のたてがみ』。この馬のくつわから滴る泡が谷間の朝露の源であることを、まさか知らないわけはないだろう」
「――では、ミッドガルドを貫きヨトゥンヘイムまで届く川の名は何だ」
「――イヴィングという川だ。この川は凍りつくことなく、滞ることなく流れ続けている」

 僅かに言い淀んだヴァフスルードニルを嘲るように、オーディンも返答に間を開ける。奥歯を噛み締める音がヴァフスルードニルの頬から聞こえてくるようだ。

「かのスルトと神々が戦を行う地は、何という」
「その野の名はヴィーグリーズ。四方が百ラスタに及ぶ広さであることを知っていたか?」
「なるほど……お前もなかなかの物織りのようだな。次はお前が問う番だ」

 膝の上で手を組み合わせながら、ヴァフスルードニルはオーディンの問いかけを待つ。その時間は長くはなかった。

「では、足元の大地と頭上の天はどこから来たのか、答えてもらおう」
「我らが偉大なる祖先イミルの肉から大地が、頭蓋から天が、骨から岩が、そして血が海となったのだ。知らぬはずはあるまい」
「ならば天を走る月と太陽は一体どこから来た?」
「マーニとソールの父はムンディルフェーリ。二人が運ぶ光は南から飛んでくる火の粉が起源だ。彼らは時間を刻むために、天を巡り続けなければならぬのだ」

 ヴァフスルードニルの口からは、滑らかに答が返されてくる。胸の中で驚嘆しながらも表には出さずに、オーディンは問いかけを続けた。

「それでは、天を巡る昼と夜は、どこから来たのだ?」
「ダグの父はデリング、夜を産んだのはネルだ。二人もまた時を刻むために回り続けている。まったく、神々は酷なことを強いる」

 二人の問答は長く続いた。オーディンは様々なことを問う。冬と夏の起源は? 最初に生まれた霜の巨人ユミルの一族は? 風はどこから来たのか?
 ヴァフスルードニルも負けてはいない。それらの問いかけ全てに正確に答えていく。冬の父はヴィンドスヴァル、夏の父はスヴァースズ。ユミルが初めに産んだのはスルードゲルミル。風を起こすのは世界樹の頂上に住まう大鷲フレスヴェルグ――

 問答は終わることのないように思えた。どれだけ時間が経ったのだろうか、オーディンとヴァフスルードニルの膠着状態は一体いつまで続くのか。終止符を打ったのは、次なるオーディンの問だった。

「――オーディンがその息子バルドルに最後にかける言葉は何だ? 答えてみろ、ヴァフスルードニルよ」

 ヴァフスルードニルの返答は、沈黙と苦鳴。そしてようよう口を開いた。

「お前が口にするであろう言葉など誰が知るものか。貴様はオーディンだったのだな……なるほど、わしはオーディンの相手をしておったのか」

 オーディンは壁からグラムを引き抜き、微動だにしないヴァフスルードニルに歩み寄る。傍にいたはずのマナガルムはいつの間にか姿を消していた。
 グラムの刃が、ヴァフスルードニルの首筋にぴたりと当てられる。オーディンが屋敷に忍び込んだ時と同じように、今度は向かい合う格好で。

「先ほどの、この一撃をかわした術を教えてもらおう」

 ヴァフスルードニルの喉から苦しげなうめきが漏れた。

「どうした? 物織り巨人どの。まさか答えられぬとは言わないだろうな」

 逡巡するように、長い沈黙。
 グラムを向けたまま苦渋に満ちたヴァフスルードニルの顔を見下ろし、オーディンはじっと返事を待つ。

「呪歌」

 やがて彼の口から流れた、ごく短い言葉にオーディンは耳を傾ける。

「呪歌ガルドル。それが答だ」
「ふむ。そなたの知識は、たった一言で済ませられる程度のものなのか? それとも、わたしが何を知りたがっているかも見抜けぬか」

 オーディンはグラムを持ち直し、切っ先をヴァフスルードニルの喉元に突きつけた。彼が使役したガルドルとは一体どのような力を持つのか、オーディンはそれを求めているのだ。ヴァフスルードニルほどの男が、理解できないわけは無いだろう。

「姿を自在に変える術――それがガルドルだ。呪文を正しく唱えさえすればよい。どれほど小さき声であろうともガルドルは力を発揮する。熟達した者は頭の中で唱えるだけで、姿を変えたという」

 ヴァフスルードニルはガルドルの力、使い方――己の知りうる総てをオーディンに伝えた。オーディンは満足げに頷き、グラムを鞘に収める。

「その答えで充分、そなたの首に用は無い。命拾いしたことを感謝するがいい」

 うなだれる老巨人を背に、オーディンは足早に館を出て行った。

「――してやられましたね」

 忽然と、影から現れるようにして姿を見せたのはマナガルムだった。ヴァフスルードニルは溜息をつき、マナガルムを見やる。

「よう奸知に長けとるわ。魔術師の一族、そのごく一部にしか伝えられておらぬ術を手に入れて満足しとることだろうよ」
「誤算でしたわ。まさか、巨人族随一の物織りである貴方が負けるとは……」

 マナガルムはぎり、と牙を強く噛みあわせる。

「せめて、あの時に手だけでも噛み千切ってやればよかったかしら」
「わしを不甲斐ないと思わんか?」

 窓枠に前肢をかけた姿勢で、マナガルムは老巨人を振り返った。

「貴方を殺しても何の意味も名誉もありません。今すべきことはオーディンの排除です。あらゆる手段を使って、あの男の喉を引き裂いてやりましょう……」

 そう言い残して、マナガルムの姿は消えた。

 ヨトゥンヘイムは喧騒であふれかえっていた。オーディンが来たことを魔狼が各地に知らせて回っているのだろう。厳重な警備と見回り、それを行う巨人たちは皆例外なく武装し、緊張に表情を固めている。

(――さて、どうやって切り抜けたものか……)

 ラウフェイを捜して危ない橋を渡り、ここまで来たのだ。今更引き返すわけにはいかない。何としてでもラウフェイを見つけだし連れ帰る。それがオーディンの目的なのだから。防御のためにルーンをしっかりと刻み直してあることは言うまでもない。
 あくまでオーディンの行動は慎重だった。警備を行っている巨人に見つからないように移動している。しかし、それは光を避けて移動しているということであり、ヤルンヴィドの傍から離れることができない。魔狼にどこから見られているか、こちらの挙動が筒抜けである可能性は高い。手を出してこないのは泳がせておくための傍観だということもあり得るのだ。

(これを使うか……)

 オーディンは懐から薄手の外套のようなものを取り出す。鷲の羽衣――身に纏えばその姿を鷲に変じさせることができる。普段は妻のフリッグが所有し管理しているが、オーディンは断りもなくそれを持ち出していた。
 素早く羽衣を纏うと、鷲に変じたオーディンは空へ舞い上がる。勿論、飛翔する姿を見られぬように周囲への注意は怠らない。叢から飛び立った鷲がまさかオーディンであるなどと、誰も考えないだろう。それは当たっていたらしく、しばらく空を旋回していても騒ぎが起きることはなかった。

「いいか、周囲にはよーく気を配っておけ! どこにオーディンが潜んでいやがるかわからねぇからな!」

 声に応じて、武装した巨人たちは喚声をあげた。どの巨人も警戒と緊張に表情を硬くしている。

「見つけたら、即ぶっ殺せ! そしてオーディンの首を取ってやれ!!」

 喚声はさらに大きくなる。その様子をただ一人だけ、冷やかな目でみている者がいた。
 武装した巨人の一人がそれに気づく。ずかずかと歩み寄ると、彼は一人離れていた巨人を見下ろし(傍観の姿勢を構えていた巨人族は、まだ幼かった)睨みつけた。

「おい、テメエも参加するんだよ。ちっとは手柄の一つくらいあげてみたらどうだ!」

 恫喝し、ごつい手で少年の肩を掴む。鬱陶しげに少年は巨人を一瞥した。それだけで、巨人は熱いものに触れたかのように手を引っ込める。舌打ちをして巨人は仲間のところへ引き返していったが、仲間と共に罵る声が少年の耳にも届いてきた――いつものことだ。

(そんなことしたって見つかりっこないよ)

 高揚している様子の巨人たちを他所に、少年は頭上を見上げた。一羽の鷲が上空を飛んでいる。

(地上を見張るだけじゃあ、空の侵入者は見つけられないじゃん)

 侮蔑の視線だけを残して、少年は何処へともなく歩き去って行った。

 地上を注意深く観察しながら、オーディンはヨトゥンヘイムの深部へ向かっていた。ヤルンヴィドの闇をも追い払おうとするように、各所に灯りがともされている。警備の数も多い。地上を進んでいくのはまず不可能だろう。

 やがて、警備がまばらになってきた。ここまで入り込んでこられるはずがないという油断か、それとも罠か。考える時間はあまり与えられていなかった。風が弱まってきている。これでは墜落という不様な姿をさらすことになる。やむを得ず、オーディンは手近な繁みに舞い降りた。
 羽衣を懐にしまうと同時に、周囲を見回す――気づいた巨人はいないようだ。いや、気づかれる以前に警備の巨人の姿もない。家屋の影を選び、オーディンは歩きはじめる。

「誰だ!?」

 太い声が、背後からあがった。オーディンはとっさに逃走に移る。制止するよう叫んでいたが、当然ながら従うことはできない。

「待ちやがれ! くそっ、オーディンだ。オーディンがいたぞ!」

 前方に木々の塊が見えた。身を隠そうと、オーディンはそこへ飛び込む。
 だが、オーディンの身体はそのまま木々を突き抜けてしまった。眼前に広がった光景は峻険な谷、そしてこちらに背を向けた一つの人影。我知らず、オーディンはその人影に声をかけていた。

「ラウフェイ――」

 見間違えようのない銀髪。しかし、人影はオーディンの予想と期待を裏切った。
 普段の冷静さがあれば、その姿がラウフェイよりも小さいことに気付くことができただろう。こちらを振り返ったのはラウフェイではなかった。端正だが、まだ幼さの残る顔――銀髪の少年はオーディンを見て、ほんの僅か微笑する。

「母さんを、知ってるんだ」
「もう逃げ道もねぇ、追い詰めたぞ!」

 追いついてきた巨人たちが、オーディンを包囲した。戦斧や槍を突き出し、ゆっくりと間合いを詰めてくる。それさえも気にならないほど、オーディンは当惑していた。この少年はいったい何者なのか。
 包囲していた巨人の一人が、少年の存在に気づく。おい、と小さく呼びかけると、仲間にもその意図が伝わったらしい。少年に目を向けた彼らは妙な表情をしていた。

「よ……ようし、よくやったぞ、ロキ。あとは俺たちがやる……」

 巨人たちはロキを避けているようなのだ。ヨトゥンヘイムにいるのであれば、彼は間違いなく巨人族であるはずなのに。
 ロキを遠巻きにして、巨人はオーディンに向き直った。手柄を目の前にしてか、さっきまでの恐怖と嫌悪は消え去っている。それぞれ武器をしっかと握り締め、全員でオーディンを取り囲んだ。

「その首、頂こうか……」

 オーディンがグラムの柄に手を伸ばしかけた時、包囲網を作っていた一人がうつ伏せに倒れこんだ。頭の周囲にゆっくりと広がっていくのは、血。首筋には、鋭い短剣が刺さっている。
 戦斧を持った巨人が振り返ると、腕を伸ばしたままのロキが視界に映った。幾人かがオーディンを囲んだまま、巨人たちはロキに各々の武器を向ける。いずれも怒りに瞳を燃えあがらせていた。
 一人の巨人が血溜りを踏んで進み、そのままロキの胸倉を掴む。

「何をしやがる!!」

 やや息苦しげな表情をして、ロキは相手の顔を見上げた。

「……その人と話をしてたんだ。邪魔しないでよ」

 どこかから失笑が漏れた。それにつられたように、巨人たちは一斉に笑いだす。

「馬鹿か!? こいつはオーディン、神なんだぞ!」
「珍しく役に立ったと思ったら……やっぱりコイツはロクなことの一つも考えやしねぇ!」
「薄汚れた出自なんだ、当然だろ」

 煩わしそうに目を背けるロキを一瞥してオーディンはグラムを振るった。グラムの刃は包囲網の一部、そしてロキを掴まえていた巨人の背を斬り払う。巨人はすぐさま臨戦体勢をとり、陣形を立て直す。

「隙を見せたのはそちらだ。文句は言えまい?」

 オーディンは周りの者を揶揄するように笑いかける。
 じりじりと後退していた巨人たちは、互いに目配せをすると背を向けて逃げ出した。グラムを鞘に納め、オーディンは背後のロキを振り返る。骸から短剣を引き抜いて丹念に血を拭っていたロキは、しばしオーディンを上目づかいに見上げ、作業を再開する。
 ロキが短剣を懐に収めたところで、オーディンは口を開いた。

「ロキ、といったな。先刻の言葉――お前は何者なのだ?」
「おじさんはアース神族なんだよね。……ラウフェイって人、知ってるでしょ」

 核心を突くロキの言葉に、オーディンは沈黙したまま頷く。

「ラウフェイは僕のお母さんなんだ」

 予想していなかった返答に、オーディンは目を見開いた。その一方で、長く胸中で信じていた期待が大きくなりつつあるのも事実だった。

「ならば、ラウフェイは――」

 ロキのほうはあらかじめ予測していたのだろう、首を横に振る。

「もういないよ。僕が生まれてすぐ死んだから」

 オーディンは愕然とする。唇を噛み締めて俯いたオーディンを覗き込んで、ロキは目を細めた。

「あのさぁ。頼みがあるんだけど……」
「――何だ?」

 ようよう顔をあげたオーディンに、ロキは破顔して見せた。手を後ろに回して二、三歩さがり、オーディンの顔色を窺う。

「僕をさ、神が住んでるところに連れて行ってよ。半分はアース神族なんだから、いいでしょ?」

 行動から鑑みるとロキは敵意を抱いてはいないようだ。一応は神の血筋――それも、神族一の賢者と称えられたラウフェイの――を受け継いでいるのだから反発も少ないだろう。さっきの態度からしても巨人のことはあまり快く思っていないように見える。
 オーディンが考えこんでいるうちに、繁みの向こうから喧騒が近づいてきた。

「あいつら、応援を呼んだみたいだ。それで? 連れて行ってくれるの?」
「わかった……承知しよう」

 頷いたオーディンに、ロキは右手を突き出した。そこには懐にしまっておいたはずの鷲の羽衣が握られている。
 口を半開きにさせたまま羽衣を受け取ったオーディンを見て、ロキは笑い声をあげた。

「命拾いしたね。もしも駄目だって言われたら、燃やすつもりだったんだよ。これがないと出られないんだよねえ?」

 ロキが働いた行為に微塵も気づくことができなかったためか、オーディンは押し黙る。羽衣を纏い鷲に姿を変えると、ふとあることに思い至った。

「そういえばロキよ。お前はどうやって――」

 さっきまでロキがいた場所から、一羽の隼が飛び立った。そのままオーディンの頭上で旋回を続けている。

「どうしたの? 早くしないと捕まっちゃうよ〜?」

 隼はロキの髪の色によく似た銀の翼で、ロキによく似た声をしていた――のではなく、あの隼がロキなのだとオーディンは気づく。草をかき分ける音が耳に入り、急いでオーディンは飛翔する。

「ロキ、お前もしや呪歌を……」
「ガルドル知ってるの? 前に知り合いから教えてもらったんだ」

 ロキは近くにいたはずだが、呪歌を唱えるような声も聞こえなかった。自分よりもはるかに幼いこの少年が呪歌を自在に使いこなしているのを見ては、オーディンも驚愕を隠しきれなかった。

 巨人たちが駆けつけた時には既にオーディンの姿はなく、まだ薄く残る夜闇に去っていく二羽の鳥が見えるだけだった。