突破

 次々と襲いかかってくる魔狼を、グラムで切り払いつつ疾走する。湧いて出るように、魔狼の襲撃は絶えることがない。しかしオーディンの身体は枝のルーンで護られている。倒れるのは魔狼のみで、オーディンはまったくの無傷だった。
 だが、傷は負わずとも体力は消耗していく。魔狼に包囲されて身動きが取れなくなるような失態は避けたい。とにかく走りつづけるオーディンだが、一気にヤルンヴィドを走り抜けようという無謀な考えを抱いているわけではない。

(そろそろ頃合いか……)

 取り囲む魔狼の数が少なくなってきたのを確認し、オーディンはグラムを地面に突き立てた。好機と見た魔狼たちが襲いかかってくるのを歯牙にもかけず、オーディンは両目を硬く閉じる。
 次の瞬間、オーディンを(正確にはグラムを)中心として、周囲に閃光が走った。暗闇に慣れた目に強い光を浴び、視界を奪われた魔狼はのた打ち回る。グラムを掲げたオーディンの足元には「太陽」のルーン――瞬時に光を生み出す力を持つルーンだ。

 グラムを鞘に収め、オーディンは再び駆け出した。進む方向に迷いはなく、確信があった。木の幹に幾度も刻んできた印が導いてくれる。
 一度だけオーディンは背後を振り返った。追って来る魔狼はいない。そのまま、オーディンはヤルンヴィドの奥へと進んでいった。

 叢をかき分けて進むオーディンの目の前に、突然小さな人影が現れた。

「――――っ!」

 危うくそれを蹴り飛ばしそうになったが、人影はオーディンの足を巧みにかわした。転倒寸前で踏みとどまったオーディンは、人影が子供であることに気づく。外見からすると年齢は以前トールが拾ってきたテュールという少年と同じ、もしくは少し上だろうか。

「……」

 子供はオーディンを見上げ、じっと佇んでいる。どうにも決まりが悪く、オーディンは沈黙する子供に声をかけた。

「おぬし、巨人族か? この森に住んでおるのか」

 やはり黙りこくったまま、子供は頷いた。そのまま背中を向けて歩き出す。ついて行くようにして歩いてくるオーディンに気づくと、怪訝そうな表情で振り返った。

「わたしもおぬしと同じ方向へ行くのだ、その……気にするな」

 再び前を向くと子供は歩きはじめた。やや早足になっているような気がするが、オーディンはなるべく考えないようにした。
 やがて、薄暗い森の中に光がさす。ヤルンヴィドの空白の部分には、泉が湧き出ていた――ミーミルの泉。それが、かつてオーディンがラウフェイと共に訪れた泉の名である。

「――おお、久しいなオーディン。退屈しのぎにでも来たか?」
「いや……」

 子供は泉の傍らに腰かけている男――ミーミルの傍に駆け寄った。ミーミルは子供の頭を撫で、そしてオーディンを見上げる。

「ミーミル……そなたの子供か?」
「まさか。拾ったのだよ。少々人見知りするがな、賢い子だ。ヘイムダルと名づけてやった」

 オーディンをじっと見上げるヘイムダルはミーミルの言う通り、聡明さを感じさせる瞳をしている。話が逸れたことに気づき、オーディンは咳払いをしてミーミルに向き直った。

「また、ラウフェイとやらを捜しに来たのかな? 残念だが私は見ておらぬよ」

 ラウフェイはヤルンヴィドで消息を断ち、そのままアースガルドへは戻ってこなかった。多くの神が彼女は死んでしまったのだと諦める中で、オーディンだけはラウフェイを捜し続けていた。ヤルンヴィドのどこかで生き延びているかもしれない――期待を抱きながらミーミルの元を訪れたのは一度や二度ではない。
 無論、ラウフェイの行方を彼の口から聞けたことはなかった。だからこそ習慣のようにミーミルを訪ねていたのだが。

「だが…ブリズスキャルフに座していた時、わたしは確かに見たのだ!」

 オーディンは声を荒げた。ヘイムダルは驚いた様子で首を竦め、ミーミルの腕にしがみつく。

「ブリズスキャルフとやらの力がいかほどかは知らぬが……見間違いではないのか? 其方たちと最初に会ってから以後、あの女神の姿は一度も目にしておらぬ」

 ヘイムダルを優しく撫でながら、ミーミルはまるでオーディンを押し留めるかのような口調で呟いた。

「ヤルンヴィドは広い。おぬしがラウフェイの姿を見かけなくとも、それは不自然ではない。違うか?」

 先ほどの激昂はもう過ぎ去ったのか、それとも押し隠しているのか――オーディンは憮然として応じる。ラウフェイの生存を必死で認めようと、そのように努力しているようでもあった。

「ミーミルよ。ここから最も早くヨトゥンヘイムへ行ける道を教えてくれ」

 ぎょっとして、ミーミルはオーディンを見上げた。オーディンは覚悟を決めたような表情で、ミーミルの返事を待っている。

「ヨトゥンヘイムへ行こうというのか……気は確かか?」

 そのままミーミルは口を閉ざし沈黙を守ろうとしたが、自分を見つめじっと佇んだままのオーディンに根負けしたようだった。溜息をつくと、ヘイムダルを連れたまま、一本の木の幹に手をつく。

「わたしも、ここに篭りきりというわけではない。この木につけられた印がわかるか?」

 見ると、確かに幹に傷がつけられている。そして辺りをよくよく見回してみれば暗がりの奥に生えている木にも、同じ印がつけられていた。

「印を辿って行けば最短でヨトゥンヘイムに着く。もう日暮れだが、早ければ夜明け前には着くだろう」

 歩きはじめたオーディンの背に、再びミーミルの声がかかる。

「オーディンよ。其方を見込んで頼みがある。私とこの子を、其方の国へ連れて行ってはもらえまいか。其方に泉の知恵を与えてから、巨人の目が厳しくなっておる……。今は何事もないが、いずれ命を落とすことになるやもしれんのでな」

 打算的、ともとれるミーミルの依頼を、オーディンは躊躇うことなく承諾した。ミーミルは巨人族とはいえ危害を加えてきた相手ではない。知恵を与え、微力ながらもラウフェイの捜索を手助けしてきたことを鑑みれば、むしろ協力的であったと言える。
 それに、泉の水を飲み膨大な知恵をその身に蓄えているミーミルを神の一員として迎えたなら、大きな力となってくれるだろう。巨人である彼を迎え入れることには反発もあるだろうが、それ以上に大きな利益をもたらすはず――オーディンもまた、それだけの打算を抱えていた。
 ミーミルは、更に続ける。今度はやや緊張を含んだ語調だった。

「一つ、言っておく。ヤルンヴィドを出たところにヴァフスルードニルという巨人が住んでいるが、あやつは極力避けるようにしろ。同じ巨人族も恐れるほどの冷酷な男だと知れ渡っているのだ。奴の館に入り、もてなしでなく死を与えられた者も多い」
「――承知した」

 オーディンは重々しく、深く頷いた。

 いくつの印を辿ったのだろうか、一層深い闇がヤルンヴィドを覆いつつあった。
 幸いなことに魔狼にも遭遇していない。頭の片隅で手間をとられるかとも考えていたが、ミーミルの言う通り夜明けまでには抜けられそうだ。僅かばかり安堵を抱え、オーディンは一歩一歩確かめながら進んでいく。
 幾人かの話し声を聞きつけたのはその直後だった。すぐさま木の陰に隠れ、オーディンは様子を伺う。

「しかし、本当に来るのか? オーディンとかいう奴は」

 話し込んでいる巨人族と思しき男たちは、いずれも武器を携えている。傍に立てられた即席のたいまつが、周囲の闇を拭い去っていた。

「あいつらが知らせてきやがったんだ、オーディンがまた入り込んでるってな。前はヤルンヴィドの途中で引き返したって話だが……今回はヨトゥンヘイムにまでやって来るかもしれねぇ。神なんぞに領地を荒らされちゃあ、たまんねぇぜ」

 肩に担いだ戦斧を地面に突き刺し、巨人族の男は哄笑した。

「はっ、オーディンとかが来たところで俺たちに敵うワケがないじゃねえか! たった一人でよ」

 影をゆっくりと移動しつつ、オーディンは巨人たちから離れた場所へ移ろうとした。
 周囲へ気を配っていなかったのは、油断があったと言わざるを得ないだろう。すぐ近くで突如咆哮があがった。同時に、魔狼が繁みから飛び出し、すぐさまオーディンに襲いかかってきた。談笑していた巨人たちは、はっとして武器を構える。

(――しまった!)

 ここまで巨人族の会話を聞いていて、何故気づかなかったのだろうか。誰がオーディンの侵入を巨人族に知らせたのかを。

「誰かいるのか!?」

 戦斧を構えて、巨人の男が叫んだ。
 与えられた選択肢は三つ。一旦ミーミルの泉へ戻るか、巨人たちを倒し前進するか、魔狼の襲撃を覚悟でヤルンヴィドにしばらく潜むか――オーディンはグラムを抜き放ち、襲いかかってきた魔狼を斬り払った。悲鳴をあげ、魔狼はその場に崩れ落ちる。
 オーディンの傍らの木に矢が突き刺さった。さすがにこれには戦慄を覚え、オーディンは身を屈める。魔狼たちに応戦している間にも、巨人たちが次々にヤルンヴィドへ踏み込んでくる。見つかるのは時間の問題だろう。

「ならば!」

 オーディンはグラムで木の幹に「火」のルーンを刻みつけた。さらにその幹にグラムを勢いよく突き立てる。木はたちまち燃え上がり、火の粉を散らして崩れ落ちた。横倒しになった木は巨人たちの進路を阻み、火の手を周囲へと広げていく。

「消火だ! 火を消せ!!」

 燃え上がる炎に怯える魔狼と、狼狽し喚き散らす巨人。グラムをしっかりと握ったまま、オーディンはその場から遠ざかる。これで、しばらくの間は追撃を逃れることができるはずだ。
 しばらく手探りで進むと、眼前に高くそびえる柵が現れた。飛び越えられる高さではないが、登れないわけでもない。グラムを鞘に収めて、迷うことなくオーディンは柵に手をかけた。この先がヨトゥンヘイムであると、そしてラウフェイがいると期待を抱き――

 柵の内側へ降りたオーディンは、違和感を覚えた。妙に静まりかえっている。辺りを見回し、近くの壁に身を寄せて周囲の様子を伺った。

「何をしているのだ? 神々の王よ」

 嘲弄を含んだ声が、頭上から降ってきた。はっとして見上げると、恐るべき巨躯の狼がオーディンを見下ろしている。あの時、最後までオーディンを追ってきた魔狼だ。
 グラムを鞘から抜き放つオーディンを見、魔狼はせせら笑う。

「ふむ……『グラム』か。フレーバルズから奪ったのかどうかは知らんが、それを持ったところでわしを倒せるものか。このフローズヴィトニルの前では、貴様の力など蟷螂の斧と知れ」

 柵を軽く飛び越え、フローズヴィトニルはオーディンに向けて牙を見せた。先ほど見せた自信からすると、力量は相当なものだろう。ルーンの加護があるとはいえ、少なくとも苦戦を強いられるであろうことは想像に難くない。
 じりじりと間合いをとりつつ、オーディンは逃走のタイミングを窺っていた。フローズヴィトニルは余裕を滲ませたまま、オーディンを凝視している。
 フローズヴィトニルが一歩踏み出してきたところで、横手に扉があるのを発見した。背中の壁は、どうやら住居の一部だったらしい。扉を開け、オーディンは身を翻して中へ逃げ込んだ。
 獲物を獲り逃したというのに、フローズヴィトニルの顔に浮かんでいるのは会心の笑みだった。

「こうも簡単に追い込めるとは。まったく、王があれでは神々など浅はかな連中の寄せ集めに過ぎぬのかな」

 呟く彼の背後に別の狼が現れた。フローズヴィトニルよりやや小柄な魔狼は、僅かに射してくる暁光に美しい体毛をきらめかせている。

「そうは思わぬか、マナガルム」
「父上、油断はなりません。ミーミルの泉の知恵を手に入れてなお、狂気に陥らなかったのは驚愕に値するかと。あの男のみを見て神々が浅慮の輩であると決めてかかるのは、それこそ浅はかな考えです」

 マナガルムの返答に、フローズヴィトニルは苦笑する。

「確かに……まあよい。引き上げるぞ、マナガルム」

 ヤルンヴィドへ戻るフローズヴィトニルに、マナガルムは首を振った。

「わたくしはもう少し留まります。オーディンをこの牙にかけるのは容易なこと……ですが、罠に嵌まったと気づき狼狽する神の王を見るのも一興」

 優美な足取りで、マナガルムは開かれたままになっている館の窓の傍へ近づいた。

「あの巨人とオーディン、どちらの力が勝るのか、見物だとは思いません?」

 窓から館の中を覗き込み、マナガルムは口の端を軽く釣りあげた。背を向けたままフローズヴィトニルは口を開く。

「なるべく手を出さぬようにな。奴は他者が関わるのを好まぬ」
「わかっていますわ」

 マナガルムの視線の先、屋敷の薄明かりの中で、扉がゆっくりと開かれた。