二度目の来訪

「……ん?」

 王座に座っていたオーディンは、不意に目を細めた。
 オーディンが座する椅子の名はブリズスキャルフ。座ればミッドガルド中を見渡すことができるという代物である。ただ能力の限界というものもあり、ヤルンヴィドの向こう――ヨトゥンヘイムを見ることまではできない。

 ラウフェイの消息を諦めることができないでいるオーディンはブリズスキャルフの力を使い、ラウフェイを求めてミッドガルド中を眺めていた。
 それが数ヶ月、数年の間、習慣のように繰り返されていたある日のことだった。ヤルンヴィドへと消えていく一つの影を発見したのは。見間違えようもない、その人影はよく目立つ銀色の髪――

「ラウフェイ!」

 思わずオーディンは叫んでいた。無論その声が届くはずはなく、人影は森の闇へ消えていった。
 王座から立ち上がり、そのまま棒立ちになったオーディンは両手を強く握りしめる。

(ラウフェイ、生きていたのか……!?)

 何故アースガルドへ戻ってこないのか、どうしてヤルンヴィドへ入っていったのか。普段ならばそんな疑問を感じただろう。
 しかし、ラウフェイが生きている可能性を与えられた今、オーディンは冷静さと余裕を失っていた。
 その足でオーディンはグラムを持ち馬を連れ、アースガルドを飛び出した。

 何の目的で何処へ行くのか、誰にも知らせずに。

 馬から降り、オーディンは眼前の森を凝視した。

「まったく、この森は変わらんな……」

 鬱蒼と生い茂った木々が光を遮り、ヤルンヴィドは昼夜を問わず闇に包まれている。一歩入れば視界は奪われ、瞬く間に魔狼の餌食になってしまうだろう。
 勿論対抗策も講じてきた。フレーバルズから授かった名剣グラムを携え、「枝」のルーンで防御も固めてある。魔狼の牙ごときで貫くことは不可能だと断言できるだけの力を、ルーンは秘めている。

「あとは、こいつをどうするか、だ」

 オーディンの視線の先には、ヤルンヴィドの端まで乗ってきた馬がいた。
 ヤルンヴィドの瘴気のためか、それとも魔狼の気配を間近に感じるのか、馬はひどく怯えていた。鼻息は荒く、蹄でしきりに地面を掻いている。ここで手綱を放せば一目散に逃げ出してしまいそうなほどだ。ルーンを施してやったところで変わりはしないだろう。
 適当な木に繋いでおこうかとも考えたが、ヨトゥンヘイムから戻ってきた時にその場所を覚えているかどうか。手綱が切れてしまう可能性もある。ヤルンヴィドに辿り着くまで、オーディンは馬を繋ぐ場所を考えあぐねていた。

「民家でもあれば助かるのだがな……」

 オーディンはヤルンヴィドに沿って歩きはじめた。人家でも発見できれば、そこに預かってもらおう。そう考えたのだが――

 廃屋はおろか、人影さえ見つからずに半日が過ぎていった。

「誰か知らねぇのか!? オーディンが何処に行っちまったのか!」

 ブリズスキャルフの周囲を飛び回り、喚き散らしているのはムニン。アースガルド中の者にオーディンの行方を訊いたのだが、答えられる者は一人もいなかった。
 羽音とともに広間へ入ってきたのはフギン。狼狽した様子のフリッグがフギンの傍へ駆け寄る。

「フギン! オーディンは、あの人は何処へ――」

 フギンは首を横に振る。

「すみません、ミッドガルド中を探し回ってみたのですが、オーディンの姿は……」
「ちくしょう、出かける時は行き先くらい言っとけ!」

 ムニンはブリズスキャルフの背をもどかしそうに爪で引っ掻く。それを一瞥して、フギンは再び広間を出て行こうとしていた。

「ムニン、喚いている暇があったらオーディンを捜しに行きなさい。私はもう一度ミッドガルドを見てきます」
「お、おう。わあったよ、兄貴」

 自分の力を決して過信しないフギンは、もしかすると見逃したかもしれないという僅かな希望を抱いていた。ムニンは頷き、フギンの横に並ぶ。
 その時、明るい声が広間に響きわたった。

「心配はいらねえよ、兄貴は大丈夫さ!」

 そう言ったのはヴィリ。取り乱しているフリッグは、裏返った声でヴィリを問い詰める。

「ヴィリ、いったい何の保証があってそんなことを言うのです!? あの人にもしものことがあったら、私は――」

 フリッグをなだめ、ヴィリは広間中に聞こえるほどの声で皆に語りかけた。

「さっき、兄貴の部屋を見てきたらグラムがなかったんだ。きっと兄貴が持ち出したんだろう」
「おいおい、それがどうしたってんだよ?」

 ムニンの言葉を押し留めて、ヴィリはさらに続けた。

「考えてもみろよ! 兄貴はルーンっていう力も持ってるんだ。兄貴には何度か剣の稽古につきあってもらったけど、グラムはすごい名剣なんだ。ルーンがある、グラムだって持ってる。そんな兄貴が死ぬわけないだろ!」

 反論するものは誰一人としていなかった。全員が、沈黙を以てヴィリの言葉に納得していた。

 手綱を引き歩き続けていたオーディンは、ふと立ち止まり空を見上げた。
 太陽は沈みかけており、もう間もなく夜の闇が空を覆うことだろう。その表情は僅かばかり焦慮にかられていた。森に潜む魔狼が光を嫌うことを知ったのは、以前ヤルンヴィドを訪れた時だ。必ず戻ってくる――ラウフェイの言葉を思い返し、オーディンは苦い顔になる。

「このままでは……」

 月光では、魔狼の動きを止めるには不十分だろう。だからこそ、魔狼たちは外の獣と交わることができたのだ。
 ヤルンヴィドの側を半日近くも歩き続けているオーディンを、魔狼が見逃すはずは無い。警戒と敵意を含んだ視線で、森の中からじっと監視しているに違いない。夜になれば、魔狼はヤルンヴィドから出ることができる。無数の牙が、一斉にオーディンを襲うことだろう。ルーンで防御を固めているとはいえ、魔狼側には数の優勢がある。
 こちらがやられるような状況にはならないだろうが、長期戦は体力の消耗につながる。なるべく――ヤルンヴィドに入るまでは――戦いは避けたいと、オーディンは思っていた。
 そこまで考え足を速めようとした時、背後から声がかかった。

「あら、そこにいるのはどなた?」

 振り返ると、立っていたのは一人の女性――残念ながら、ラウフェイではない。

「そなたは……」
「リンド。何か捜しもの?」

 胸中を見抜いたように、リンドは微笑みかける。渡りに船とオーディンは頷いた。

「そなたの家は近くにあるのか? できれば、一晩泊めてもらいたい」

 オーディンも馬も疲労困憊していた。半日歩きっぱなしのオーディンに、馬もそれにつきあわされたのだから。野宿よりは魔狼に襲われる可能性は低くなるだろう、という打算もあったのだが。

「構わないわよ」

 微笑を崩さぬまま、リンドは応じた。

「随分と」

 古びた家だな。言いかけた言葉をオーディンは呑みこんだ。それを見て、リンドは苦笑する。

「別にいいのよ、現に古いんだから」

 オーディンが連れていた馬は、小さな馬屋に繋いである。いい環境とは決して言い難いが、それでも何もない平地で一夜を明かすよりはマシだ。桶一杯の水と少量の飼葉を口にすると、すぐに眠り込んでしまった。

「ところで、あなたはどうしてこんな場所を歩いていたのかしら?」
「うむ…ヤルンヴィドを越えてヨトゥンヘイムへ行こうと思っていたのだ」

 その返答にリンドは目を丸くする。

「あんな危ない所に? 魔狼たちがすぐに襲ってくるわよ、あなたなら」

 オーディンは、反射的に背後のリンドを振り返った。あなたなら――彼女の言葉に戦慄を感じずにはいられなかった。
 驚くわけでもなく、リンドは軽く首を傾げる。

「あら、違ったの? てっきりオーディンだと思ったのだけど」

 まるでヤルンヴィドに詳しいような言動、オーディンの脳裏には一つの結論が導き出されていた。それ以前に、魔狼が潜むヤルンヴィドの付近に家を建てる人間など、いるはずがないのだ。
 リンドは巨人族だ。オーディンの右手は、腰に携えたグラムの柄へと伸ばされている。
 ゆっくりと、リンドが近づいてくる。柄を握り、オーディンはグラムを振りかざす。そのまま無防備なリンドの頭めがけて振り下ろした。
 グラムが突き刺さる手応え――グラムは床に突き刺さっていた。剣を握ったオーディンの右手の上には、華奢な手。

「安心して。巨人たちに知らせる気も、殺すつもりもないから」

 視線だけを巡らせて、オーディンはリンドを見た。接近してグラムを封じ込める、その動作の一つも気取ることができなかったため、驚愕せざるを得なかった。
 そのまま、リンドは己の手を離す。さっきの瞬間を突けばグラムを叩き落とすこともできたにも関わらず。当惑したまま、オーディンはグラムを鞘に収めた。

「『鉄の森の魔女』……ヤルンヴィジュルって、知っているかしら?」

 ベッドに腰かけ、憂鬱そうな顔でリンドは呟いた。視線はオーディンに向けられてはおらず、独り言のようだ。

「魔術を行使する一部の巨人族、その中でも女性を示す言葉よ。私がそう」

 危険が去ったことを確認し、オーディンも椅子に座る。

「私の先祖たちは、他の巨人族と協力しあう関係を保っていたわ。理由は勿論、神に対抗するため。けれど、巨人との関係は次第に崩れていったの。畏れていたのかしら、巨人たちは魔術使いの一族を敬遠しはじめたのよ。
 それでも先祖は巨人たちと再び手を結ぼうと考えていた。当然よね、共通の目的を持つのだから、いがみあうのは無益だもの。でもそれは無駄だった。神を滅ぼすためによかれと思って行った行為は、巨人族を恐怖に陥れるだけでしかなかったの」

 どこか遠い目でリンドは続けた。

「そして巨人たちは先祖たちを殺しにかかった。……多くの同族が死んだわ。今は私のように、生き残りの僅かな子孫が隠れて暮らしているだけ」

 彼女の話に聞き入りながら、オーディンはある考えを抱いていた。

「なるほど、フレーバルズもそなたと同じ魔術師の末裔であったのか」
「フレーバルズ――知ってるわ。偏屈なことで有名なおじいさんね。少し前に、死んでしまったけど」

 俯くリンドの目は、微かに潤んでいる。
 オーディンはそのまま黙っていたが、やがて立ち上がるとリンドの肩に手をかけた。

「感傷にひたっているところ申し訳ないが、そなたに一つ頼みがある」

 真摯な表情のオーディンに、リンドは戸惑いで応える。

「そなた達の一族が行使していたという魔術を教えてほしいのだ」
「……もしもそれが本気なら、あなた相当変わった人ね」

 目尻をこすりながら、リンドは微笑した。しかしオーディンはより真剣な態度で、彼女の肩を握った手に力を入れる。

「わたしはアース神族の王だ。我が一族を、そして世界を護るためにあらゆる力が欲しい。そなたの知る魔術とて例外ではない。巨人などに世界は渡せん、渡すわけにはいかん。そなたの力が必要なのだ」

 やや間があって、リンドは肩の手を握り返す。そして微笑みとともに頷いた。

「教えるのはいいけれど、覚悟が必要よ。それでもいい?」
「当然だ。この世界を護ると決めた時から、覚悟などとうにできている」

 彼女の問に頷き返すオーディン。彼に迷いは無い。

「一晩のつもりであったのに、随分と長く邪魔してしまったな」
「いいのよ。話し相手ができて、嬉しかったもの」

 外套をはおるオーディンを、リンドは微笑んで送り出した。
 リンドの言っていた「覚悟」の意味を、オーディンは己が身を以て知った。彼女の家に泊まっていた期間で会得することができたのは、以前フレーバルズも使っていたと思われる予見の占いだけだった。
 その他にもリンドはいくつか術を見せてくれたものの、オーディンがそれを会得するのにどれだけの月日を要するのだろうか。やむなく、オーディンは他の術の習得を諦めた。

「あなたが戻って来るまで、この子を預かっていればいいのね」

 馬の首を撫で、リンドは確認する。オーディンはヤルンヴィドへ赴いている間、リンドに馬を預けることにした。願いを引き受けてもらったうえに馬の世話を任せるのは気が進まないオーディンだったが、口を利かない馬も話の相手になってくれるらしい。リンドは快く承諾した。

「必ず戻ってきて。でないと、この子がかわいそうだから」
「案ずるな。その時には、また魔術の教えを請うとしよう」

 リンドに別れを告げ、オーディンはヤルンヴィドへと歩き出した。