賢者の喪失

「あの男が言っておったフレーバルズとやらも、やはり巨人なのだろうな……」

 闇の中、木々を掻き分けながら進むオーディンは、誰ともなく呟いた。

「おいおい、それがわかってるんだったらフレーなんとかってヤツに会わずに、アースガルドに帰るほうが賢い選択ってもんだぜ、オーディン」

 応えたのはムニン。オーディンの後ろのラウフェイも、ムニンの意見に頷く。

「ムニンの言う通り、もうアースガルドに戻るべきです。フレーバルズという巨人が我々に好意的であるかどうかさえ、わからないというのに……。それに先ほどの狼たちが襲ってくる危険もあります」

 ラウフェイは空を見上げる。森に入ったときには遥か天上を巡っていた太陽も、じき沈む頃だろう。
 オーディンは無言だった。ラウフェイの言葉が聞こえていたのかどうか、止まらずにただひたすら前進していく。ラウフェイは小さく溜息をつくと、再びオーディンについて歩き出した。

「……どなたかね」

 ミーミルの泉から歩き出して、小屋を見つけたのは辺りが完全に闇に包まれてからだった。ムニンに言われなければ、辿り着いたこの小屋も見逃していただろう。
 小屋の戸から顔を出したのは、いかにも偏屈、という形容の相応しい老人だった。皺だらけの顔に伸ばし放題の白髪、眉間には深い皺が刻まれ、こちらを見るくぼんだ目は、不審者を見るような眼差し。
 周囲の偵察のために今はいないが、ムニンがこの場にいれば即刻帰るぞと言い出すだろう。

「フレーバルズ、か?」

 オーディンは老人の視線を耐えながら、問いかける。老人は不機嫌そうに眉根を寄せると、オーディンとその背後に佇むラウフェイに視線を移した。
 その目が何を語ろうとしているのかを察したラウフェイは、オーディンの背中越しに、老人に呼びかける。

「この森に迷ってしまったのです。ミーミルという者にフレーバルズを訪ねてみよ、と言われて――」

 老人は背を向けて小屋の中へ入っていく。人違いか、或いは期待外れか……顔を見合わせ落胆する二人に、老人はしわがれた声で怒鳴りつけた。

「さっさと入れ。風が入り込んで中が冷えるじゃろうが」

「座れ」

 老人――フレーバルズは古びた長椅子に座るように示す。二人が座ると、椅子は耐え切れないと叫ぶように、大きく軋んだ。小さな木製の椅子に腰かけているフレーバルズは、手を組み合わせながら改めて二人を観察し始めた。

「ふむ、ミーミルに会ったのじゃな。まったく、あやつめ。面倒事をわしに押し付けおって」
「ミーミルを知っているのですか?」

 皺だらけの顔を、フレーバルズは笑みの形に歪める。

「知っておるとも。実に変わり者でな、他の者からは敬遠されとる。まあ、わしも似たようなもんじゃが」

 椅子から立ち上がると、フレーバルズは古びた暖炉の傍へ向かった。小さくなり、消えかけている火に薪をくべ、小窓から外を眺めながらふと、呟く。

「今日はなにやら騒々しいのぉ。珍しく客人が来るし、外の狼どもは騒いでおる……。ところで、お前さんらはわしに何の用じゃね?」

 ミーミルの名を出してから、老人は警戒を緩めたようだった。最初にオーディンらを見たときのフレーバルズの表情といったら、今に飢え死にしてしまいそうな遭難者でも容赦なく追い返すのではないかと思わせたほどだ。それがここまで警戒を解かせるのだから、ミーミルという男は彼にとってよほど信頼のおける人物なのだろう。
 本題を出され、オーディンは無意識に身を乗り出していた。

「知識だ。どのようなものでもよい、何か知識となるものが欲しいのだ」

 抽象的な内容に、ラウフェイが補足する。

「どんな形のものでも、とにかく役立つものを教えていただきたいのです」
「ふむ――知識とな?」

 フレーバルズは心当たりがないのか、眉根を寄せた。真っ白になってしまった髪を弾きながら、申し訳なさそうな声色で問い返す。

「どうせミーミルにもそう言って、あの水でも飲ませてもらったんじゃろう? すまんが、わしはそのような大層なものは持っとらん。じゃがその――知識ではないが、あるものを持っておる。なにか特別な道具のようなものでもいいかの?」

 一も二もなくオーディンは頷いた。

「勿論だ。特別な道具、とはどのようなものなのだ?」

 急かすオーディンを、ラウフェイが押し留める。

 フレーバルズは立ち上がり、振り返って二人を一瞥した。

「そうか。ならば、しばしの間待っておれ」

 言うと、フレーバルズは扉の奥へと消えた。ラウフェイは椅子から離れ、小窓から外を見回す。

「遅いですね……ムニンはどこまで行ったんでしょう」
「先ほどの狼をよほど警戒しているのだろう。心配することはない」

 フレーバルズの消えた扉の向こう側で、凄まじい音がした。何か大量のがらくたが一気に崩れ落ちるような――
 二人はムニンのことよりも、フレーバルズの身を案じていた。

「くそ、それにしても、暗いな……」

 オーディンに命じられた通り、ムニンは小屋の周囲を見回っていた。今のところ異常は見つからないが、いつどんな敵が襲ってくるとも知れない。ムニンは見張りの領域を徐々に広めていった。

「何だ?」

 オーディン達のいる小屋から相当離れてしまっている――それでもムニンは自分の場所と小屋のある位置をはっきりと認識していた――ところで、ムニンは灯りを見つけた。一つではない。

(巨人どもの集落か?)

 そう思ったが、ムニンはすぐに撤回する。家の灯りと思ったものは、手に掲げられた松明だったからだ。がさがさと草を掻き分ける騒々しい音、そして、たまに聞こえてくる獣の唸り声――

(おいおい……まずいぞ、これは!)

 ムニンは翼を翻し、全力で飛行を始めた。

「待たせたのう」

 扉を開けて、ようやく出てきたフレーバルズは全身埃まみれだった。両手には、やはり埃と蜘蛛の巣だらけの何か――鞘に収められた剣と、儀式に使うような杖――を持っている。
 おそらく、それらがフレーバルズの言っていた特別な道具なのだろう。
 フレーバルズは剣と杖から丁寧に汚れを払い、オーディンの前に差し出す。受け取ると、オーディンは説明を求める目でフレーバルズを見返した。

「その剣は『グラム』という。親父が大事にしとった剣で、素人目のわしにもわかるほど素晴らしい切れ味じゃった」

 鞘から抜き放つと、その長剣はよほどの名剣なのだろう、長く眠っていたグラムには錆一つついていない。まるでたった今造られたばかりのような輝きだった。

「そっちの杖は『ガンバンテイン』というのじゃ。その杖にかかれば、たちまち魔法を消し去ることが出来る。どんな魔術であろうが、どんな高名な魔術師がかけたものであろうが、じゃ」
「ほう……」

 オーディンは感嘆しつつ、グラムとガンバンテインを腰に収める。

「さて、欲しいもんはくれてやった。さっさと帰るがええ」

 暖炉でくすぶっている火を見ながら、フレーバルズは呟く。瞳には、何故か不安の色があった。

「時間も無いからの――」
「大変だっ!!」

 扉が勢いよく開いた。そこにいたのは息の切れかけたムニン。

「やばいぜ、さっきの狼どもが巨人を呼びやがった! 早く逃げねぇと捕まっちまうぞ!」

 オーディンとラウフェイは、揃ってフレーバルズを見た。フレーバルズは、苦笑じみた皺を刻みながら扉を開ける。

「言ったじゃろう? 時間が無い、と」
「フレーバルズ――知っていたのか?」

 フレーバルズは、のんびりとした所作で暖炉の前に向かい、背中越しに呟く。

「わしは巨人どもから敬遠されとると先に言ったな。何故だかわかるかね?」

 唐突な問いかけに、オーディン達はフレーバルズを振り返った。

「随分と昔、巨人どものなかに魔術を行使できる者がおった。魔術使い、とでも呼ぼうか。巨人どもはそいつらをえらく嫌っておってな、駆逐しようとしたんじゃよ」

 フレーバルズの背中は、どこか悄然としていた。

「わしは、その血を継ぐ生き残り……じゃから巨人どもが来るのを、予見することができたというわけじゃ」
「予見――その術を教えてもらいたかった……」

 惜しそうに歯噛みしながらオーディンは呟く。その周りを飛び周り、ムニンは叫ぶ。

「なに言ってやがんだ、オーディン! ぼうっと突っ立ってないで早く逃げるんだよっ!」

 ムニンを肩にとまらせると、オーディンは拳をフレーバルズの鼻先に突き出した。フレーバルズは反射的に、オーディンの手から落とされたものを受け取る。
 それは、木の板切れだった。

「礼を言う、フレーバルズよ。知なるものを授けてくれた上、お主のおかげで危険を回避することができそうだ。それを肌身離さず持っておけ。お前の身を災厄から守ってくれるだろう」
「ほほっ、気休めにはなるかのう」

 笑いながら、板切れを古着のポケットに押し込むフレーバルズを一度振り返ると、二人は駆け出した。

 危機は、もうすぐそこまで迫っている。

「おい、開けろ、じじい!!」

 巨人は古びた小屋の扉を叩く。あまりの衝撃に耐え切れず、扉は傾いた。
 のっそりと顔を出したのは、白髪を伸ばし放題にした老人だった。いかつい顔を眺め回して、それから口を開く。

「なんじゃ、騒々しい。わしになんの用じゃ」
「神がやって来なかったか!? こいつらが追っていたんだが、見失っちまったらしい」

 巨人が指したのは、群れをなした狼だった。

「……知らん」

 老人はそう吐き捨てた。巨人の顔に、激昂が浮かぶ。

「二人組の奴らだ! 片方は銀髪の女だったらしい、知らねぇのか!?」
「知らんと言うておろうが。ここには誰も訪ねてはこん。さっさとお引き取り願おうかの」
「――くそっ、役立たずが!」

 巨人は松明を持った手とは反対の手で、老人の腰をしたたかに打ち据えた。ぐっ、と苦鳴を漏らすと、老人はその場に倒れる。

「さっさと捜せ! どこかにいるはずだ!」

 吠えながら、巨人は立ち去っていった。
 その喧騒が遠ざかり、聞こえなくなった頃、老人はゆっくりと体を起こした。

「まったく、年寄りは優しく扱うもんじゃぞ……」

 そう言って、あちこちが擦り切れた上着の内側を探る。老人の手には、小さな板切れが握られていた。見ると表面に、鳥の足跡にも似ている模様のようなものが彫られている。
 老人は知る由もないが、それはエルハス、加護を意味する「枝」のルーン文字だ。

「あやつらは神だったのか、そうかそうか――」

 扉を立てかけると、フレーバルズは何事もなかったように小屋の中へと戻っていった。

「こっちだ! 森を出るには、この方向が一番早い!」

 先頭を飛ぶムニンは後を走る二人に呼びかけた。――もうじき、夜が明けようとしている。
 オーディンは全力で走りながら、ムニンのほうを連れて来たのは正解だと思った。ムニンの黒い体ならば、ヤルンヴィドの闇に紛れるのも容易い。これがフギンであったなら、闇の中で閃く純白の羽はさぞ目立ったことだろう。
 それに今のように近くにいれば、ムニンのくすんだ金色の瞳が、その位置を教えてくれる。

「――追いつかれたようです!」

 隣のラウフェイが、焦燥をあらわに呟いた。背後に迫っているのは、狼。ヤルンヴィドの闇で姿を隠すことはできても、匂いまでは消せない。
 ラウフェイはオーディンの腰から、グラムではないほうの剣を鞘ごと奪い取ると、後方に向き直った。勢いを殺せず、オーディンは走ったまま振り返る。

「ラウフェイ、何をしておる!!」
「ここで彼らを足止めします。あなたは早く森を出てください!」

 オーディンは焦った。ラウフェイを失うことが、アース神にとってどれだけの損失になるだろうか――答えに辿り着く前に、オーディンはその考えを停止させた。

「何を言っている! お前も早く逃げるのだ、ラウフェイ!!」

 ラウフェイを中心に、狼たちが包囲網を形成する。

「大丈夫です」

 一匹目がラウフェイめがけて飛びかかる。狼を槍で貫くと、ラウフェイは一度だけ、オーディンを振り返った。

「必ず戻ります。シギュンにも言っておいてください、必ず、絶対に生きて戻ってくると」

 唇を皮が破れそうなほどに強く噛んで、オーディンは疾走した。ひときわ巨大な、馬などよりもはるかに大きな体躯の狼が、彼を牙にかけようと追ってきている。
 闇を作り出している木々がまばらになってきた。森の終わりなのだ。
 ムニン、続いてオーディンが、ヤルンヴィドの森から飛び出す。執拗に追ってくる巨狼もまた繁みを突き破って飛び出した――が。

「ぐおおぉ!?」

 夜が明け、東から太陽が昇り始めていた。オーディン達が森を飛び出したのは西側。しかし、覚悟を決めたオーディンが抜き放ったグラムに暁光が反射し、狼の目を直撃したのだ。
 目を潰されてのたうちまわる狼を、オーディンは当惑して見遣る。

「ハティ、スコール!!」

 不意に狼が叫ぶと、森の奥からさらに二頭――彼らもまた、他とは比べものにならないほどの巨躯――の狼が飛び出してきた。

「あの、あの光を――忌々しい光を潰すのだ!」

 沈みかけていた月さえも眩しく感じてしまっているのだろう、狼は完全に視界を奪われてしまっていた。二頭の狼――ハティとスコールは凄まじい速度で疾駆すると、なんと宙空へ舞い上がった。そのままスコールは太陽を、ハティは月を追い、みるみる遠ざかっていった。
 オーディンが呆然としているうちに、先ほどの狼も森の中へ逃げ込んでしまっていた。

 それから二夜の間オーディンは待ち続けたが、ラウフェイは帰っては来なかった。

 オーディンとムニンを迎えたのは、王の帰還を喜ぶ声と、満身創痍のオーディンを気遣う神々の表情だった。真っ先にトールが進み出てオーディンの肩を叩く。

「オーディン、戻ってきたんだな! こんなに傷だらけになっちまって、だが生きててよかったぜ。あれ……ラウフェイは、どうしたんだ? 一緒に戻ってきたんじゃ――」

 ラウフェイの姿がないことに、トールは目を丸くする。もしかしたらこちらに戻っているのかもしれないと、オーディンは淡い期待を抱いていたのだが。

「戻って、きていないのか……」

 一人の幼い女神がトールを押しのけて、落胆しているオーディンに詰め寄った。

「ラウフェイは? ラウフェイはどうしたのですか!?」
「……すまぬ」

 それだけしか、言えなかった。女神はその場にくずおれる。

 オーディンが大きな知恵を得たと同時に、神々は大きなものを失った。
 彼の右目、そして、ラウフェイという名の優れた賢者を。