世界樹の烏

 アースガルドとミッドガルドは長く平和の時を保っていた。
 霜の巨人は未だ十分な戦力がなく、そして炎の巨人は長であるスルトの判断により攻め入ることがなかったからである。人々の間で争いが起きることもなかったのだから、言い換えればこれは僥倖だろう。ともかくも、アースガルドに住む神々はこの長く続いている平穏な生活を喜んでいた。

 だからこそ、アースガルドに「侵入者」が現れた時、神々は驚愕した。

「手短に訊こう。何者だ」

 今やアース神族の王という名に相応しいまでの威厳を身につけたオーディンは、三人の侵入者を前に険しい表情をしていた。多くのアース神に囲まれているにも拘らず、侵入者である彼女たちに怯えた様子はない。

「私達は運命の女神、ノルニルです」
「ノルニル、だと?」

 聞きなれぬ言葉にオーディンは眉をひそめ、周りのアース神もざわめきだした。それを見ながら、ノルニルと名のった一人が続ける。

「私たちの役目は世界の運命を定め、見守ること。あなた達神々の運命もまた、例外ではありません」
「でたらめを言うな!」

 アース神の輪の中から声があがった。周囲の神が耳を塞いでしまうほどの大声をあげたのは、赤毛のアース神――トール。

「なんの証拠があって言いやがる! オーディン、こんな侵入者処刑しちまえ!」
「静まれ、トール」

 重みのある声でオーディンはトールを制した。王であるオーディンに言われては、トールも黙り込むしかない。

(確かに、この者らは人間には見えん……仮に巨人族であったとしても、只者ではなさそうだ)

「ノルニルとか言ったな。お前たちは一体どこから来たのだ?」
「アースガルドの外ミッドガルドよりさらに外の、外界の地ウットガルドより来ました。私はウルド、過去を司るノルン……」
「ウットガルド?」

 オーディンの呟きを聞いて、ウルドの隣の少女が口を出す。

「やっぱり知らなかったんだ〜。あ、私はスクルド。ノルン三姉妹の三女、未来を司るノルンよ」
「ウットガルドにはイミルの血の洪水を生きのびた霜の巨人がいるわ。彼らは神々を滅ぼそうとその機会を狙っている。これはあなたにとって、勿論世界にとっても大問題じゃないかしら。あと、私は現在のノルン、次女のヴェルダンディーです」
「なっ、何だと!? 巨人どもがまだ生きているというのか!?」

 ヴェルダンディーの言葉を聞いて、オーディンは驚愕する。あの未曾有の大洪水の中で、まったく泳げない巨人が生きているはずがないと、そう思い込んでいたせいかもしれない。
 驚きのあまりにオーディンは思わず立ち上がりかけたが、すぐに冷静さを取り戻して王座に戻る。

「そなた達が『運命の女神』というのなら、わたしは何をすればいいのか……教えてくれるか」
「決まってるでしょ、ほっといたら世界はどんどん破滅に向かっちゃう。だから世界を守らなきゃいけないの!」

 スクルドは早口に言葉を並べ立てる。妹を制し、代わりにウルドが言葉を続けた。

「スクルド、物事は順序だてて説明しなければ混乱するだけよ。むやみに力に頼っても、いたずらに破滅を近づけてしまうだけです。世界を守るために必要なのは、力ではなく知恵と知識です」
「知恵と、知識……」

 神々とノルン達が出て行った後も、オーディンは椅子から動かずに黙考していた。

「知恵と知識を以て、世界を守る……」

 オーディンは生来聡明なほうだったのだが、今以上の知恵と知識を蓄える術までは知らなかった。肝心のノルンも姿を消してしまったため(もしくは矜持のせいか)、聞くに聞けないでいた。

「オーディン、いつまでそこに座ってんだよ」

 武器庫へ向かう途中だったらしい、柄だけになってしまった剣を片手にトールが顔を出した。オーディンはちょうどいいと、椅子から立ち上がる。

「トール。ラウフェイを知らぬか?」
「何言ってんだよ。ラウフェイだったら三夜前からミッドガルドへ行っちまったぞ」
「……むう、そうだったな。せめてあやつに尋ねようかと思っていたのだが」

 オーディンはトールの前を通り過ぎて広間を出て行こうとした。

「ラウフェイはいねぇけど、さっきのノルニルって連中なら、世界樹のところで見かけたぜ」

 トールの言葉を背に受けて、オーディンは不意に立ち止まった。トールは不思議そうに、オーディンの顔を覗き込む。

「どした? 腹でも、痛くなったのか?」
「世界樹か、わかった。ありがとう、トール」

 そう言うと、足早にオーディンは出て行った。一人残されたトールは理解できないまま、首を傾げていた。

 アースガルドの外れにそびえ立つ世界樹。オーディンはその袂へと足を運んだ。少し離れた後ろからは、二匹の狼――フレキとゲリが後をついて行く。
 オーディン達の脇を、鹿が一匹跳ねていった。

「あ、来ると思ってたよん」

 鹿を追いかけていたらしい少女は、目の前に立っているオーディンを見上げて言った。

「そなた……スクルドとか言ったか?」
「そ。覚えてたんだ」

 スクルドはくるりと背を向けると、再び世界樹のふもとへ戻る。木の芽を食んでいる鹿を視界に捉えるやいなや、なにやら叫びながら鹿を追い払いはじめた。
 やや呆然とするオーディンの背後から、唐突に声が発せられる。

「アースガルドの象徴である木なら、世話くらいしてあげなさいな。スクルドの追っている鹿たちに新芽をかじられて、弱っていますよ」

 いつの間にか現れていたのはウルドだった。

「知っているのか?」
「ええ」

 ウルドはオーディンの横を通り過ぎて、世界樹の根に腰かけた。オーディンはゆっくりと前進し、ウルドを見下ろすかたちで立ち止まる。

「恥ずかしいことに、知恵と知識を磨く術をわたしは知らぬ。お前たちが『運命の女神』だと申すのなら――運命を見通すのならば教えてはくれまいか。知恵を、知識を手に入れるために、わたしは何をしているのかを」
「うんっ、イイ質問の仕方だね、おじさん」

 鹿を追い払って満足したらしいスクルドは、軽快な口調だ。呼ばれ方にやや憮然となったオーディンだったが、態度には出さないでおいた。

「あなたに必要な知識は、アースガルド、そしてミッドガルドにはほとんどありませんね。今のあなたがウットガルドに赴くのは無理でしょうし……」
「ま、待て……ならばわたしはどうすればいいのだ? 命を賭けてウットガルドへ行けとでも!?」

 ウルドの言葉に、さすがにオーディンは怒りをあらわにした。オーディンの行動範囲には求めるものは無く、死地に赴くしか選択肢は無い。死を宣告されたようなものだ。
 オーディンの気迫にたじろぐ様子も無く、ウルドは続ける。

「助言する者の言葉には耳を傾けなさい。ウットガルドへは行けませんが、あなたが行くことのできる場所はあと一つだけ、あります」
「それはどこだ? 教えてくれ」

 ウルドは顔を持ち上げ、オーディンの目を見据えながら言った。

「冥府です」

 オーディンは倒れそうになった。冥府といえば死者の住処。生者であるオーディンが行くべき場所ではないし、行ける場所でもない。

「わたしをからかっているのか!!」

 一層激しく、オーディンは怒鳴りつける。ウルドは沈黙したまま、口を開こうとはしない。

「姉さん、もうちょっと親切に言ってあげなさいよ」

 頭上から、声と共にもう一人のノルン――ヴェルダンディーが降ってきた。

「死ななくても冥府に行く方法はあるわ。半分だけ死んだ状態で冥府へ行けばいいのよ。半分生きていれば、こっちに戻ってこれるでしょ? まあ、戻れる保証はないんだけど」
「でも、ウットガルドに行って死亡確定よりマシだよね?」
「お、おい……」

 ヴェルダンディーとスクルドの一言に、オーディンは怒りを通り越して眩暈を覚えた。

「これ以上、伝えることはありません。後はあなた次第です」

 ウルドがそう言うと、スクルドもヴェルダンディーもオーディンの前から去って行った。

「さて、どうするか」

 世界樹を前に、またもやオーディンは黙考していた。フレキとゲリは退屈しているようだ。草の上に寝そべって、オーディンが次に起こす行動を待っている。

(奴らが本当に運命を定めているのならば、わたしがここで死ぬと、そう決めておるのか?)

 彼女達が冥府へ行けと助言した以上、少なくとも自分はここで死ぬ運命には無いのだろう、オーディンはそう思い込むことにした。世界樹を見上げると、その周囲を観察しはじめる。フレキとゲリもそれを見守るように後を追った。

 オーディンは立ち止まった。視線は、世界樹の幹に絡みついている蔦に向けられている。いきなり無造作にむしりとると、その一端に大きめの輪を作り、世界樹の幹に手をかけた。
 オーディンの後を追おうとして、フレキとゲリは思わず躊躇した。オーディンは、世界樹を登りはじめたのだ。片手にはあの蔦で作った輪を持って。
 二匹は、おろおろとオーディンを心配そうに見上げている。オーディンは手を止めずに二匹を見下ろす。

「フレキ、ゲリ。これからわたしがどうなっても、騒いではならん。よいな」

 オーディンは足場になりそうな枝に移ると、二匹の従者に命令する。フレキとゲリは、おとなしく命令に従った。その場に座り込んで、オーディンをじっと見上げている。
 オーディンは覚悟を決めた。蔦を輪にして両足を固く結ぶと、もう一方の端を足元の枝に結びつける。
 次の瞬間、フレキとゲリはオーディンの命令を破りそうになった。オーディンは、自らを持っていた槍で貫いたのだ。
 痛みに襲われたオーディンの身体は傾き、枝から足を踏み外す。彼の足には蔦が絡みつき、それは世界樹に繋がっている。当然、オーディンは――

「ぐ、ぐううっ……」

 オーディンは、逆さ吊りの状態になってしまった。頭に血が上り、槍で貫いた傷口からは血が滲みだす。彼の意識は、どんどん遠ざかっていった。

「へえ、やるねぇ。あのじーさん」
「呼び方を慎みなさい、あの方はアースガルドの王なんですから」
「でもよ、オレらには関係ないコトだよな。別にアース神族ってわけでもないんだからさ」
「そういうことではありません。自分達の王でなくとも、謙遜は必要です」
「相変わらず、くそ真面目だねぇ。そんで、どーすんだ? あのオーディン様とやら」
「……今は大丈夫でしょう。危なくなったら手を出しますが」
「はは、そう言うと思った」

 うっすらと開いた目に入ってきたのは、光だった。

「う――……わたしは、一体……?」

(どうやら無事に戻ってこれたらしいな……)

 全身がひどく痛む。なんとか起き上がったオーディンは、目の前に二つの影を捉えた。フレキとゲリかと思ったが、それにしては影がひとまわり小さいことにすぐに気づく。ぼやけていた視界がはっきりしてくると、二つの影は二羽の鳥――どうやら烏のようだ――であることがわかった。
 フレキとゲリはその二羽を追い払うわけでもなく、オーディンの傍らに座り込んだままだ。

「わたしを死体だと思って、ついばみにでも来たか?」

 そう言い、オーディンは自分で苦笑した。

「はん、誰が生きてる人間なんて食うかよ、そんな馬鹿がいたら是非お目にかかりたいねっ」

 オーディンは慌てて辺りを見回したが、声の主はどこにも見あたらない。やや離れた場所から自分を見ているフレキとゲリ、そして目の前にいる烏しか、いないのだ――

「どこ見てんだよ、こっちこっち」

 言われて、オーディンはようやく目の前にいる烏が話しかけているのだと気づいた。

「さっさとそのルーンとかいうのを使いな。そのまま弱って死んじまうぜ」
「う、うむ……」

 落下の衝撃で槍も抜けていた。傷口から血が溢れ出し、オーディンの身体は放置しておけば死は免れない状態だった。
 オーディンは、たった今冥府で学んできたルーン文字の一つ、「枝」のルーンを槍の柄で地面に刻んだ。瞬く間にオーディンの身体は血色を取り戻し、腹部の傷口もふさがっていく。

「お前、なぜルーンを知っておる?」

 完全に治癒したのを見て安心したオーディンは、ふとある疑問に気づいた。烏は、なぜルーンの名を知っていたのか。
 オーディンの問いかけに、何故か烏は自慢そうに胸を張った。

「オレはな、お前の記憶を見たのさ。で、そん中に治癒の効果がある枝のルーンってのがあったから助言してやったってワケ。首吊ってたお前を下ろしてやったのも、オレ達なんだぜ」

 それまで沈黙していた白い烏が、その続きを喋りはじめる。

「私はフギン――『思考』です。およそ九夜の間、あなたの『意識』を見続けていました。あれ以上冥府に留まっていると戻れなくなる恐れがありましたので、やや強引でしたが蔦を切らせていただきました」
「オレはムニン、『記憶』だ。でよ、オーディン様。お礼ってのも変だが、頼みがあるんだ……」

 それまで乱暴な口調だったが、急にムニンは態度を改めた――それでも、あまり変わらなかったが。苦笑いしながら、オーディンはうなずく。

「お前たちは命の恩人だからな。言ってみるがいい」
「あの狼みてぇに、オレ達も従者にしてくれねぇか? あんたといると楽しそうだからな」
「考えるまでもない、お前たちの力は大いに役立つ。是非そうしてくれ」

 返事を聞くと、フギンとムニンは、嬉しそうにオーディンの肩に飛び乗った。

「ありがとうございます。この力、あなたのために使わせていただきます」
「へへ、これで退屈しないでいいし、食いもんの心配もなくなるな」

 オーディンは冥府のルーン文字とともに世界樹の烏も手に入れた。フギンとムニンを肩に乗せ、オーディンは意気揚揚と帰っていった。

 その後、世界樹はオーディンが首を吊った樹として、人々からも神からも、ユグドラシル――恐ろしい者の馬――と呼ばれるようになる。