総ての始まり

 最初は、何もなかった。どこまでも続く闇。そして、裂け目。どれだけの大きさなのかさえわからないほどに巨大な裂け目、ギンヌンガガップがあるばかりだった。それ以外は何も、光さえもない。

 やがて変化がおきた。ギンヌンガガップの端、ずっと後に「南」と呼ばれるようになる方角に熱が集まり、火になった。
 一方、反対側の「北」と呼ばれるようになる方角では、冷気が集まって霜が生じる。それは消えることなく少しずつ、少しずつ大きくなり、成長していった。そして火は炎へ、霜は氷塊の集まりとなった。
 それらは自らをどんどん巨大化させていった。彼らの成長を止めるものがないため、炎も氷もとめどなく広がっていく。やがてそれらは裂け目の中央で衝突した。
 炎は氷を溶かした。氷が溶けることによって生じた水が炎を消した。押し寄せる炎の熱が水を消し去った。それは幾度も繰り返され、永遠に続くと思われた。

 ぶつかりあう炎と氷。ある時、その合間から霜のかけらと雫が一滴、こぼれ落ちた。真下に広がるギンヌンガガップの底へと。
 裂け目の最深部に到達した時、雫と霜は別のものに変わっていた。それらが溶け合い、ひとつになったものには生命が宿っていた。

 彼の名は、イミル。霜の巨人。この世界に生まれた最初の、そしてとてつもなく巨大な生命。
 また雫が一滴落ちてきた。それはイミルのような巨人ではなく、一頭の巨大な牝牛になった。彼女の名はアウズフムラ。
 一方、ぶつかりあっていた炎と氷はイミルとアウズフムラの誕生を堺にして弱まっていった。まるで互いの衝突が、彼らを生み出すためだったかのように。

 勢いを弱め、ギンヌンガガップの端でくすぶっていた炎が変化を見せた。炎が少しずつ少しずつ、ゆっくりと形をなしていく。それはイミルとはまた別の、炎を纏った生命。炎は己を糧として新たな生命を創ったのだ。
 彼らが生まれた地は「ムスペルヘイム」、そして彼らは炎の巨人「ムスペル」。
 自らを「スルト」と名づけた、ひときわ大きなムスペルがいた。ムスペル達は彼を一族の長とした。

 イミルはアウズフムラの出す乳を飲んで生きながらえた。そしてアウズフムラは、辺りに広がる氷や霜、それらについている塩を舐めて命をつないでいた。その行為によって、新たな生命が生まれることになる。

 アウズフムラは、いつものように氷塊を舐めていた。すると氷塊の端に異物が現れた。それはイミルの頭部に生えているものと同じもの、髪の毛だった。

 イミルは、やがて自らとアウズフムラ以外の存在を望むようになった。言葉を解さない牛が相手では、孤独を癒すことができなかったのである。当然彼はムスペルヘイムの存在を知らなかったし、知っていたとしても灼熱の劫火に包まれた火の国になど、行けはしなかっただろう。
 イミルは自身の両足を交合させて、彼と同じ霜の巨人の男女を生み出した。生命を創りだすことを知った彼の身体は、その汗からも子孫を生んだ。以降、イミルの血族、霜の巨人たちは急速な速さで増えていった。

 アウズフムラは相変わらず、氷を舐め続けていた。彼女が舐めている氷塊からは髪の毛が、それだけではなく頭、肩、胸が露になりはじめていた。氷もまた、炎やイミルと同じように生命を創りだしていたのである。
 やがて、その生命は氷の塊から飛びだした。霜の巨人とかたちは似ているが、比べるのもはばかられるほどに素晴らしく美しい容姿をしていた。彼は自分を「ブーリ」と名づけた。
 イミルと彼の子孫はブーリを異端視し、排除しようとした。しかしブーリにはイミルと渡りあえるだけの力があった。
 加えて、アウズフムラもまたブーリに危害を加えることを良しとしなかった。自分が氷から解き放ったブーリを、我が子のように思っていたのだろう。

 アウズフムラから見放されてしまうのは、生きるための糧を失うに等しい。異端者を排除しようという意思はあっても、イミルをはじめとした霜の巨人たちはそれを恐れていた。
 やがてブーリはイミルと同じように、自らと交合して一人の息子を産んだ。ブーリの息子は「ボル」と名づけられた。

 巨大な身体に比例して、イミルは途方もない生命力を持っていた。自覚こそなかったが、彼が子孫を残せたのはそれのおかげである。一方、ブーリの生命力はイミルのように強大ではなかった。世代交代の使命を果たし、ブーリはこの世を去った。
 ボルは父が自分に与え、残していった血を絶やさぬため、霜の巨人との融和を図った。父に劣らぬ力を持ちながら、しかし争いを望んでいなかった彼の性格もあるだろう。
 ボルは霜の巨人の一人、ベストラを妻に娶り、彼らの仲間となった。
 しかし、それは表面上のことでしかなかった。

 イミルをはじめ、今や霜の巨人のほとんどがボルの存在を疎ましく思っていた。そして、彼の子供がいずれ自分らの存続を脅かすのではないか。彼らはそう考えるようになった。
 その頃、ボルとベストラとの間には三人の息子、オーディン、ヴィリ、ヴェーが生まれていた。

「奴らは我々にとって脅威となる。おそらく……いや、絶対にだ!」

 霜の巨人の間で、ボルとその息子の追放が決定された。唯一ベストラがそれに反対したが、所詮は焼け石に水。彼女もボルとともに霜の巨人の住処を去ることにした。
 孤立してしまうことがどれだけ危険であるか、ボルは知っていた。この世界で唯一の食糧源であるアウズフムラは巨人の住む土地にいるのだ。追放されるということは当然その食糧を失うということであり、死を待つだけなのだから。
 それでも、ベストラは夫と子とともにいることを選んだのだ。

 ボル達は果てしない裂け目をさまよい続けた。食すことのできるものを求めて、光も風も無い世界を、ただひたすらに。
 しかし、僅かな希望さえ見つかることは無く、ボルとベストラ、そして彼らの子供は次第に衰弱していった。飢えにあえぐ子供たちを見かねて、二人は決断した。

「なんだと?」

 再び巨人の地へ戻ってきたボルは、もう一度仲間として迎え入れてほしいとイミルに頼みこんだ。

「頼む、このとおりだ! ベストラ妻とこの子らだけでもいい、お願いだ!」

 ボルは必死に懇願した。彼の身体は見る影もなくや痩せ細っている。それは彼の妻と子供にも言えることではあったが。

「だめだと言うのなら、アウズフムラの乳だけでも分けてくれ……このままじゃあベストラも、あの子らも飢え死にしてしまう」

 イミルには、彼の頼みを受け入れる気など初めからなかった。もともと、ボルやその息子らを追放したのは彼らが餓死してしまうことを見越した上で――つまり彼らを排除するために行ったのだから。

「お願いだ! 俺の命と引き換えでもいいから!」

 思案するイミルの耳にその言葉が入ってきたとき、彼の頭の中にある考えが浮かんだ。イミルはどこか意地の悪い笑みを表し、ボルを見下ろしながら頷く。

「よかろう。お前の命と交換で、こやつらにアウズフムラの乳をやるとしよう。釣り合わぬ取引だがな……」
「ほ、本当か? ありがてぇ……」

 ボルはその場に泣き崩れた。イミルの胸中も知らずに。

「そら、お前らの分だ」

 イミルはアウズフムラの乳を入れた器をボルの前に無造作に置いた。その中身を覗き込んで、ボルは叫んだ。

「な、なんだよ!? こんな量じゃあとても……」

 ボルがそう言ったのも当然、器の中にはほんのわずかな乳しか入っていなかったのだ。

「足りない……じゃないか……」

 うわごとのように呟くボルを見下ろし、イミルはふん、と鼻を鳴らす。

「確かに乳はくれてやったはずだ。不満だとでも?」

 ボルは気づいた。イミルには、自分たちを生かす気は全く無いのだということに。ボルの背後では、ベストラが子供たちにアウズフムラの乳を分け与えている。

(子ども達が飢えをしのぐことができれば、俺はそれでいい!)

「ちくしょおおっ!」

 無謀にも、ボルはイミルに殴りかかった。怒りにかられて、いや、子供たちの腹が満たされるまでの間イミルに邪魔をされないように。

「わしに刃向かうとは……愚かな!」

 無論痩せ細ったボルの身体では、イミルに敵うはずも無かった。イミルはたやすくボルを殴り飛ばしてしまう。
 地面に叩きつけられ低くうめくボル。ベストラは傍に駆けより、その身体を抱き起こす。

「ボル、しっかりして!」
「……息子達……は……?」

 傷つきながらも、我が子を心配するボル。ベストラは傍らのオーディン、ヴィリ、ヴェーを見遣った。彼らもまたボルの死期を悟ったのか、ボルの手を握り、何度も父親の名を呼んでいる。

「大丈夫、大丈夫よ! だからしっかりして、ボル!」
「よかった……すまない、ベストラ……俺、は……もう――」

 ボルの言葉はそこで途切れた。痩せて細くなってしまったベストラの腕に、ボルの重さがずしりと伝わる。ボルが死んだことを理解するにはそれだけで充分だった。

「ボル……? ボル!!」

 ベストラは動かなくなったボルを揺り動かす。勿論、ボルがそれに応じることは、永遠に無い。泣き叫ぶベストラを見下ろし、イミルは邪悪な笑みを浮かべた。

「邪魔者が、ようやく死んでくれたわ」

 そう言い、イミルは再び手を振りあげる。それに気づいたヴィリが声を張りあげてベストラを呼んだ。

「母さん、逃げてっ!」

 しかし、その声はベストラの耳には届かなかった。その前にベストラもまたイミルの手で葬られたからだ。同族であるはずのベストラを殺したにも拘らず、イミルはゆっくりとその顔に笑みを形づくる。

「復讐などをされてはたまらんからな。ボルと共に逝けて、この女も本望だろう」

 母と父の骸を目の前にして、ヴェーは泣き叫ぶ。ヴィリは呆然とし、そしてオーディンは――

「ちくしょうっ……!」

 オーディンの顔は、激しい怒りに引き歪んでいた。イミルは見下すような目で三人を見る。

「安心しろ。貴様らもすぐにこやつらと同じように――!?」

 突如イミルの左足に激痛が走った。気付けばボルとベストラの傍らに子供は二人、ヴィリとヴェーしかいない。慌てて足元を見下ろすと、オーディンが立っている。
 イミルの左足の甲には尖った氷塊が深々と突き刺さっていた。そう、北方より運ばれてくる冷気で造られた氷塊が。

「貴様……!」

 イミルはオーディンを殴り飛ばそうと腕を振りまわす。が、左足を地面に縫いつけられてしまっては、動くことすらままならない。そんなイミルの攻撃を避けるのは容易かった。
 オーディンは再度大きな氷塊を持ち上げ、勢いよくイミルへと投げつける。

「よくも! よくも親父とおふくろを!!」

 足に突き刺さった氷塊を抜くのに気をとられていたイミルはオーディンの投げた氷を顔面にもろに喰らった。不意をつかれ、イミルは自分に何が起こったのか理解できないまま仰向けに倒れこむ。

「ぐううっ!?」

 オーディンの力は、イミルの予想を超えていた。父から受け継いだ力があるとはいえ、まさかここまでとは。何よりも、アウズフムラの乳を与えたことがイミルにとって致命的だった。
 しかし、氷塊の一撃ではイミルに致命傷を負わせることなどできはしない。さらに氷塊を叩きつけようとするオーディンを、イミルは片手の一撃で払い落とした。

「小僧どもが……」

 イミルの目に、激しい怒りが燃えあがる。それは両親を殺されたオーディンも同じであった。

「兄貴ぃっ!」

 ヴィリとヴェーは兄がイミルと闘うのを見ていただけだったが、我に返るとすぐさま傍にあった巨大な物体を持ち上げる。それは、アウズフムラの乳が入っていた器だった。

「いくぞ、ヴェー!」
「う、うん!」

 互いの呼吸を合わせ、ヴィリとヴェーは器を思い切り放り投げた。器は放物線を描き、イミルの頭部に直撃する。不意打ちを喰らい、さすがのイミルも怯んでしまった。

「奴はどこに行った!?」

 自らを叱咤して正気に返ったイミルは、目の前にいたはずのオーディンが消えていることにうろたえた。その背後から、何かが迫ってくる。

「ヴィリ、ヴェー、逃げろぉっ!」

 オーディンの声はイミルの背後からだ。慌てたイミルが振り向くと、混乱した様子のアウズフムラが一直線に突進してきている。その上で無我夢中にアウズフムラの頭を叩いているのは、オーディン。

「な――」

 イミルがそれに対して何らかの反応をする暇もなく、アウズフムラの短い、しかし太く硬い角がイミルの胸に突き刺さった。

「ぐっ!」

 断末魔の声はそれだけだった。それからイミルは声もなく崩れ落ち、その身体は無惨にもアウズフムラの蹄に踏みつけられる。心臓を貫いた胸の傷口からはとめどなく血が流れ出てくる。

「し、死んじゃうよう……!」

 ヴェーが悲鳴を上げる。海などまだ存在しないこの世界、彼らは今まで泳いだ経験など一度もなかった。
 そして、それは霜の巨人も同じ。助けを求める声が、そこかしこから聞こえてくる。

「慌てるな、この上に乗るんだ!」

 そう叫んだオーディンは、既にイミルの上にいた。よく見れば、ヴィリ達の背丈を追い越しつつある血の海の中、イミルの遺体は少しずつ浮き上がっている。
 イミルの身体の上から、三人は周囲の光景を呆然と見守っていた。泳げない巨人たちは、次々と沈んでいく。辛うじてイミルの身体に掴まる者もいたが、這い上がるだけの力は残っていないようだ。それを見かねたヴィリが、オーディンとヴェーに呼びかける。

「もう我慢できねぇ! あいつらを助けよう。奴らに俺たちを押さえ込むだけの力は無いに決まっているさ!」

 そう言うやいなや、ヴィリは何とか傍に寄って来た巨人を引きあげた。その巨人は三人を見て嫌悪と恐怖に顔を歪めたが、生死が懸かっている。抵抗しようという者はいなかった。

 イミルの血液は広大なギンヌンガガップを満たし、やがて裂け目の外へと溢れていく。

「もう、生きてる奴はいないか……」

 イミルの死体の上で、ヴィリは呟いた。今や辺りに広がるのはイミルの血のみ。霜とその雫から生まれたイミルの血は、見る見るうちに透きとおり――後に海と呼ばれるものになっていた。

 オーディンは、自分たちを避けるようにして座っている霜の巨人たちに目をやった。ヴィリは両手を広げ、畏怖の視線を向ける巨人たちに向かって呼びかけた。

「大丈夫だ、俺たちはなんにもしねぇ! だよな、兄貴?」

 ヴィリに言われ、オーディンは頷く。

「これ以上の争いは無意味だ、俺たちはそう思う。だから互いに憎しみあうのはもう止めにしないか」

 巨人たちの間にざわめきが広がっていく。戸惑いの空気はあったものの、オーディンの言葉に反対する者は一人もいなかった。彼らの中に、次第に賛同の声が広がっていく。
 その様子にオーディン、ヴィリ、ヴェーは嬉しそうに微笑んだ。
 ボルの息子とイミルの子孫は和解し、その証として全ての者を同じ一族、「アース神族」と呼ぶことにした。

 世界が、そして神が誕生したのである。